私も全くその通りだと考えております。 登録文化財の制度が5年10年と進んでいけば、 5年で2,500から3,000、 10年もたてば5,000と登録文化財が増えていくと思います。 もし利用・活用が上手くいかないと、 非常に広範囲の所有者の方に、 維持管理・修理が大きな経済負担になっていくだろうし、 そのままいけば行詰まることになります。 ですから登録文化財制度をすすめて行くには、 利活用ということが最大の課題だと思っております。
利活用は建物の種類とか、 おかれた環境によっていろんな形があると思います。 しかし神社とか寺院だとか、 東大の安田講堂のような講堂、 あるいは和風の旅館とか、 和風の料亭とかのように、 現在の利用目的や利用形態をそのまま続けて行けるという場合は限られていると思います。
住宅とか商店とか倉庫とか工場とかそういうものは、 やはり使い方を変えていくことを工夫して行かなくてはならない。 そういうことを現在日本では活用とか利活用とか言っておりますし、 そのために建築に手を加えることを再生工事と言っております。
ただ、 この辺の言葉はまだ世界的に定着しておりません。 建物を違う目的に転用するとか、 あるいは再利用(reuse)していくという言い方があります。 最近になって両方つなぎ合わせてアダプティブリユーズという言葉が次第に定着してきたようです。 日本の場合はまだそれに上手く対応する新しい言葉が出来ておりませんが、 これから段々作られていくということであろうかと思います。
歴史的建物の活用を、 これからどういうふうにやったらいいかということですが、 互いに知恵を出し合って実例を検討しながら進めなければならないわけです。 その例として最近の例をスライドで検討しながら、 私の考えを述べさせていただきたいと思います。
舞鶴は京都府の日本海側にありまして、 日清戦争の直後の明治30年から、 おそらく対ロシアを考慮して軍港が作られ鎮守府がおかれておりました。 若い方も戦後の引き揚げ船を歌った「岸壁の母」という流行歌をご存じでしょうが、 実際にそういうこともあった場所です。
平成元年から2年にかけて地元の赤煉瓦のまちづくり研究会と、 横浜の研究会、 それから京都の建築史の先生方が協力されて、 調査をすすめられました。 同時にシンポジウムとか、 コンサートをされ、 その結果、 従来は赤煉瓦の建物は、 発展の障害だというふうに考えられていた市長はじめ市の方々も、 貴重な歴史遺産というふうに考え直されました。
舞鶴には明治30年代に建った海軍の鎮守府の倉庫、 海軍工廠の建物が数十あります。 それが現在海上自衛隊の倉庫、 日立造船の倉庫、 舞鶴倉庫という会社に払い下げられたもの、 民間の町の倉庫に使っているものなどになっています。
平成5年に市が元は魚雷倉庫に使われた煉瓦の建物の払い下げを受けて、 「赤れんが博物館」としました。 これは煉瓦を鉄骨で補強した珍しい、 非常に美しい建物です(写真18)。 この窓の部分は元々鉄の扉であったところを、 鉄板を抜きまして、 その外側にガラスのサッシをつけてあります。
内部は世界各国の煉瓦、 インダス文明とかメソポタミアとか、 アウシュビッツとか、 アンネの家とかのいろんな煉瓦が展示されています。 私が行ったときは丁度特別展で、 ベトナムのチャンパ王国の遺跡の展示が行われておりました(写真19)。 これは非常に良い建物で、 市の文化財にもなっており、 文化財にふさわしい「煉瓦」の博物館として利用したわけです。 「煉瓦」というのはかなり特殊なテーマですけれども、 使用形態・利用形態から言えば現在日本で普通にある活用方法です。
市役所のすぐ脇には海軍の鎮守府の元の雑品庫及び壊れた兵器の倉庫があります(写真20)。 非常に長い大きな建物で、 写真の建物の裏にずっと同じような倉庫があります。 これを先程の赤煉瓦博物館ができた次の年に市が市政記念館として再生しまた。 市の記念の物の展示、 あるいは記念行事やいろんなイベントに使われております。
通路の上の屋根にガラスの破風を新しくつけまして、 ハイライトで光が入る階段室のまわりはホールになっています。 向こうが喫茶室、 それから中央の吹き抜け部分ではいろんなイベントやコンサートをやるというふうになっています(写真21)。
喫茶室が妙なデザインで、 他にもちょっとやりすぎのところもありますが、 大体きれいになっています。 2階には市政に関するいろんな展示があります。
そこにはベルリンオリンピックで棒高跳びで西田修平と2・3位を分かち、 のちに戦死された大江季雄さんの棒高跳びの棒の実物もあります。 私はびっくりしたんですけれども、 日本の真竹を切って使っているんですね。 握るところを見ますと、 昔はビニールテープなんてありませんから、 電気の絶縁テープを巻いてあるわけです。 こんな物でよくオリンピックのメダルとったなと、 感心しました。
現在は展示やイベントに使われていますけれども、 今年の10月の市の行事の目録をいただいて、 催し物案内を見てみますと、 10月は赤煉瓦フェスティバル、 謡曲と仕舞の発表会、 マリンバコンサート、 計4日間使っていますから、 イベント空間としてはそんなに有効に使われているとは言えません。
なかなか面白い仕事ですが、 場所によって考え方を変えていかなければ行けないと思いました。
特に私たちの世代の建築家は、 建築のデザインの方法として、 「形は機能に従う」、 つまりある建物の目的の要求する機能を充足していけば、 そこから自然と建築の形は生まれると言ってきました。 皆さんもこういった考えをどこかで聞かれたことがあると思いますが、 実は機能を追求していって形が生まれるというのは、 ごく少ないのです。 機能を追求したって建築の形が出来るわけがない。
逆に芸術的な建築家は「形が元だ」「機能は形に従う」という逆の提案をしましたが、 これもそんなことはあり得ないわけです。 これも極端な意見です。
この記念館のような建物について考えてみますと、 これからこの建物をどうやって活用していくかという「機能」は決まってないわけです。 それは我々が決めなければならないのです。 それから形は決まっているかと言いますと、 元あった形はあるけれども、 それをどういうふうに使っていくかと言うことは、 例えば真ん中の2階の床をはずして、 ホールにするかどうかは、 私たちが決めなければならないわけです。 結局使用目的・機能と形を両方慎重に組み合わせていかないと良い物は出来ない。 機能主義的な考え方でもアンチ機能主義の考え方でもまずい。
建築の作り方は昔からそうなんですね。 機能だけで作るわけにもいかないし、 形だけで作るわけにもいかない。 そういうことを私は改めて考え直したわけです。 そうすると、 じゃあこれから良い活用とか再生をするには、 どうしたらいいのかということになりますが、 ここでちょっと次の例を紹介してみたいと思います。
喫茶店の奥に土蔵があります。 土蔵の今の所有者は村守恵子さんという女性の方で、 おじいさんが昭和2年に竹屋長兵衛という家から買い取られたものです。 一帯は今は雷門の2丁目ですけれども、 もとは材木町と言いました。 隅田川から揚げた材木とか竹の問屋さんがあったわけです。
ここの土地は容積率が700%で、 再開発の話が度々あったのですが、 村守さんはおじいさんがとても愛着をもたれていたということで、 保存したいとお考えでした。 そこで去年、 文化財になりませんかと台東区に相談されたとのことです。 台東区ではこれは「明治の土蔵だ。 こんな物は文化財にならないよ」と取り上げられませんで、 ただ調査だけはしてみようということで、 台東区の文化財審議委員会の委員をされている東海大学の稲葉和也先生と他の方が建物の実測調査をやられました。
写真22は丁度外人さんが喫茶店に来ていて、 割とヨーロッパ的な雰囲気ですが、 この奥の土蔵の調査を行ったわけです。
2階の梁の下に張ってある板をはがしたところ、 なんと慶応4年辰年八月吉日、 つまり明治元年ですけれども、 その墨書が出て参りました。 蔵の正面には厚い土塗りの防火扉がついております。 後で申しますけれども、 下から入るようになっていて頭を下げて入ります。 ここの梁に慶応4年辰年八月吉日と書いてあります。 竹屋長兵衛という人の名前と蔵を建てた奥さんと子供の名前も書いてあります。
そこで村守さんは、 こんな古い土蔵であれば、 是非残したいということで、 区の方にまた掛け合われたのですが、 区は「文化財には指定できません。 しかし資金貸付を紹介しましょう」ということで、 利子補給のある転業の資金を紹介されたということです。
そこで村守さんはご自分の知っている職人さんと会われ、 あるいは漆の造形作家などいろんな方が加わってプロジェクトチームを作りました。 土蔵はギャラリーにしよう、 それから前の店の方はカフェあるいはアンティークショップにしようという案がまとまったということです。
この辺り一帯は焼け野原だったのですが、 この蔵は焼けずに残りました。 関東大震災にも焼けなかった。 当時、 松屋の屋上から撮った写真に焼け跡の中にこの蔵がぽつんと立っているのが写っていました。
左官の棟梁も加わって相談し、 建物はいろんな職人さんが入って手を入れました。 漆の造形作家の方が提案されたのは、 この建物の1階の床を下に是非下げたいということです。 ギャラリーとして使うには土蔵の1階は天井が低すぎるというわけです。
それに対して建築の関係者はみんな反対したわけです。 それでは土蔵の元の形がなくなってしまうということですけれども、 村守さんはそれを実現しました。
扉の下をくぐるのですが、 私はこの方が遙かに良いと感じます。 1階の天井が高くなってゆったりしています。
店の奥に扉がぱっと見えるわけです。 これを人が入るためにしょっちゅう開けていては、 店の方からは感じが出ないわけです。 10月から11月にかけての企画の写真です(写真23・24)。
2階も展示に使っております。 それから11月10日までですからもう済んでおりますが、 文学者をモデルにした人形と風景の写真を組み合わせた人形作家による展示もありました。 例えば永井荷風ですと永井荷風の人形を浅草の六区に歩かせて写真を撮るといった趣向です。
2階は床の真ん中に穴を開けてあります。 元々江戸の土蔵には割合こういう荷物を2階に上げるための穴がありました。 2階の窓からの明かりもこの穴を通して1階へ入るわけです。 現在は例えば下で音楽会をやっているとき、 上で聞くことが出来るというような使い方も出来ます。
最近はこういう様な素人の方というか、 所有者の方が自分で工夫されて、 いろんな面白い、 私たち建築家が想像もしなかったような活用の例が出ております。
その所有者である美容師さんが、 店舗の表を金沢らしい格子戸に直し、 そこの奥にガラスのスクリーンを入れています。 通りから奥にある美容室が見えるわけです。 私はびっくりしました。 美容院といったら洋風です。 和風の町家の美容院という発想は私にはなかったのですが、 その方は「私が美容師としてやっているところを、 通りを通る人に見てもらいたい」。 そういうような考え方で工夫をされたとのことです。
こういうようなことをこれからみんながやって、 それを互いに学びながら、 進めていくということが大事であると思います。
デザインについても建築家は出来た物の形の美しさだけを狙ってきた人が多いのですが、 それは本当の再生ではないのです。 建築家による保存・活用はあんまり上手くない。 考えが固定しちゃっています。 むしろ一般市民のほうが遙かに斬新な考えを持っていらっしゃいます。 あるいはさっきの漆の作家とか、 多くの分野の人が入って協力してやった方が良い案が出来るとか思います。
それから活用は地域の伝統や特色に深く根ざさなくてはならない。 浅草のこの例は、 やはり浅草という土地だから出来る例だということです。 同じことを新宿や渋谷でやろうとしてもうまくいかないと思います。 やはりその土地の中にある伝統に根ざすと、 多く、 長く活用されるということです。
日本人は、 さっきのギャラリーなんか見ても、 やり始めれば器用ですから、 やっていけば数年で世界のレベルを遙かに追い越すのではないかと私は思っているわけです。
アメリカとかヨーロッパの例を勉強する必要はあるけれども、 もう日本はそれに追いつきつつあるし、 追い抜いていく力が十分あると思っています。
登録文化財の活用と保存ついて(要約)
千葉大学名誉教授 大河直躬
1 登録文化財制度の課題
2 舞鶴における
煉瓦蔵倉庫群の活用事例について
3 文化財の活用における機能とデザイン
4 浅草のギャラリーとして甦った蔵
5 金沢・観音町の美容院の再生・活用
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