藻谷浩介さん、経済成長がなければ僕たちは幸せになれないのでしょうか?


少し長めの後書き──経済成長と生活の豊かさについて考える(少し長いため一部抜粋)  山崎 亮 

 
(前半省略)

GDPと幸せな生活の関係性
 (省略)…経済成長の「経済」という言葉は、そもそも「お金」だけを意味する言葉ではなかったはずだ。経済の元となった「経世済民」という言葉は、「世の中をうまく治めて人びとが幸せな生活を送ることができるようにすること」というほどの意味だった。だから、お金をたくさん得ることというわけではなく、多様な方法で人びとがより幸せになることが本来的な意味での「経済成長」であり、お金がたくさん手に入ることはそのうちの一つの指標でしかなかったはずなのだ。
 ところが、お金が手に入ればその他の指標もすべて満足させられるだろうという考え方が広がり、いつのまにか経済成長といえばお金がたくさん手に入ることを意味するようになり、他の指標を犠牲にしてでも金銭的な指標を高めることが大切だという発想になってしまった。このことによって、上記のように「ゆっくり語らう時間」や「自分がつくったものを贈るという行為」や「感謝の気持ち」が経済の指標から抜け落ちてしまったのである。
 念のために書き添えておくが、お金は必要ないと言っているわけではない。お金を儲けることに注力しすぎて、その他の価値を減じすぎるのがもったいないと考えているのである。お金を支払って外食するのもいいが、仲間同士で食材を持ち寄って、一緒に食事を作って食べるのもいいのではないか。お金をあまり使わない方法でつながりを増やす生活があり得るのではないか。そんなことを考えるのである。
 では、最低限どれくらいのお金があればいいのか。これに対する一般的な答えを僕たちは持ち得ない。都心部に暮らしていて、ワンルームマンションの一人暮らしでも月に一〇万円の家賃がかかるという人もいる。あるいは、中山間地域の空き家を仲間と一緒に改修して、月三〇〇〇円の家賃で暮らしているという人もいる。その意味では、年収一二〇万円だけど一年で一〇〇万円は貯金しているという人もいるし、年収三〇〇万円だけどお金が足りなくてしょうがないという人もいる。
 よく言われる例えだが、子育てや老後のためにお金を貯めておかねばならないから、年収五〇〇万円以上は必要だとあくせく働くのもいいが、年収三〇〇万円で貯蓄がなくても地域の人たちとの信頼関係を築きながら生きるのもいいだろう。子育てや老後のために「お金を貯める」方法もあるし、「信頼関係を貯める」方法もある。どちらの方法も有効だろう。
 地域の信頼関係があると、突然仕事が無くなっても、それを知った地域の人たちが食べ物を運んできてくれたり、次の仕事を見つけて紹介してくれたりする。だからこそ、他の人が困っているときには自分もできる限り手助けしようとする。こうした人間関係を構築しておくのか、「そんな時間はない」としてお金をたくさん手に入れて、誰の世話にもならずに生きていけるように準備するのか、それぞれの価値観があるだろう。
 ただし、いずれの道を進むにしてもしっかりと働かねばならない。信頼関係を得る道も険しいし、お金を十分に得る道も険しい。「働く」という言葉は、「はた・らく」であり、「端(はた)にいる人を楽(らく)にする」という意味から来ていると言われる。信頼関係を得るにも、お金を得るにも、日々の働きが大切になるわけだ。

studio-Lの働き方
 ちなみに、studio-Lという僕たちの事務所の働き方は前者に近い。変わった会社かもしれない。金銭的な利潤を最大化させるためにあくせく働くというよりは、地域のためになる仕事をするなかで信頼関係を少しでも多く手に入れたいと考えている。事務所の仕事には、営利事業と非営利事業がある。営利事業は外部から「頼まれた仕事」であり、お金をいただいて進める事業である。ただし、この事業もゆっくり進める場合が多く、委託費の多寡で仕事を引き受けるかどうかを判断することはほとんどない。むしろ、その仕事を引き受ける意義があるかどうか、担当者の熱意があるかどうか、地域の人たちのやる気があるかどうか、美味しい食べ物や気持ちのいい温泉が近くにあるかどうか、などが重要になる。それに加えて委託費が多いのか少ないのかを勘案しつつ、仕事を引き受けるかどうかを決める。営利事業とはいえ、多様な儲けを大切にしたいと考えているわけだ。
 一方、非営利事業というのは「頼まれもしないのに取り組む仕事」である。こちらから勝手に押し掛けていってプロジェクトを立ち上げさせてもらう事業だ。かつては兵庫県のいえしま地域で活動させてもらっていたが、この地域に住む人たちがNPO法人をつくって事業を引き継いでくれたので、いまは三重県伊賀市の穂積製材所を中心にプロジェクトを進めている。この種のプロジェクトに人件費は出ていない。交通費や経費も自分たちで払ってプロジェクトに関わっている。こうした非営利事業のなかで試験的な方法を試してみて、うまく行きそうだということが分かれば営利事業に反映させる。お金をいただいている営利事業では、うまくいくかどうかが分からないような実験的な手法を試すわけにはいかない。これまで誰も試したことの無いような方法を実施してみようとする場合、まずは非営利事業でうまく行くかどうかを試してみて、それを営利事業へと移植することにしている。また、非営利事業で新人を育て、営利事業へとデビューさせるというのも僕たちのやり方だ。よく「お金ももらわずに、むしろ自分たちでお金を払いながらプロジェクトを続けるのはなぜですか?」と問われることがあるが、非営利事業は事務所のCSR活動であるとともに、以上のような実験場としての意味を持つので辞められない。
 かくいう僕たちも、生活に必要なお金はしっかりと手に入れたいと考えている。お金を得ることを目的化しないように注意しつつ、生活に必要なお金を得ることも重視している。ともすると「お金なんて無くてもいいや」なんて言葉が出てきそうだが、実際には事例を調べるためにインターネットを使うにも電話を使うにもお金が必要となる。書籍も大量に購入しなければならない。また、スタッフがそれぞれ生活していく上での費用も必要となる。基本的な生活が成り立っていないと、その上で楽しいことをやっていこうという余裕が無くなっていく。だから、スタッフはそれぞれ基本的な生活が成立するくらいのスキルを身につけようと努力するし、僕もそれに答えられるだけの仕事を生み出そうと試行錯誤する。
 この試行錯誤にも二つの方法があるだろう。一つはスタッフが生活していけるだけのお金を手に入れるよう努力すること。もう一つはスタッフが生活していくためのお金を引き下げること。大阪の梅田に事務所を構えるということは、スタッフがそこへ通勤できる場所に住むということであり、どうしても家賃が高い場所に住まなければならないことを意味する。月に一〇万円の家賃がかかるような場所に住みながら大阪の中心部にある事務所に通うと、仕事から得たお金を毎月一〇万円分は他の誰かに支払うことになっている。なのに、事務所も自宅も狭い。食事代も高い。
 そこで、事務所の一部を非営利事業が進む三重県伊賀市島ヶ原地区の製材所へと移転させることにした。すると、スタッフが住む家の家賃は格段と低くなる。一人暮らしなら一万円か二万円、家族と暮らしていても四万円か五万円で広い家を借りることができる。となれば、固定費は一気に半分以下である。可処分所得が増えることになる。製材所と大阪の事務所をスカイプで二四時間つないでおけば、窓の向こう側には常に大阪事務所が映し出されていて自由に会話ができるというわけだ(実際、この原稿を書いている今もディスプレイには島ヶ原の事務所が映し出されている。よしよし、みんなちゃんと仕事しているなぁ)。
 生活するためにお金は必要。それをどこまで最小化できるかによって、その他の価値をどれくらい最大化できるのかが見えてくる。大阪事務所のスタッフがたくさん払っていた自宅の家賃を、まとめて島ヶ原へと異動させてしまったことによって小さく抑えてしまった。これは経済成長に貢献しない行為だろう。しかし、僕たちの働き方は多様度を増したし、広い事務所と広い自宅を手に入れることができた。経済成長と豊かな生活との関係について、実践的に考えている最中である。

    ***

 経済の素人である僕との対談は、藻谷さんにとってさほど得るところがないものだったに違いない。にも関わらず、終止明るく話を展開してくれたことに感謝したい。また、本書のまえがきにあるとおり、藻谷さんは当初、この対談を書籍化するつもりはなかったそうだ。そこを曲げて書籍化に協力いただいたことにも謝意を表したい。出版社近くのホテルに泊まり込んで何日も校正してくれたと聞いている。ありがたいことだ。そのホテルに足しげく通い、本書を完成まで導いたのは対談の企画者でもある井口さんだ。彼女がいなければ対談も本書も生まれていない。今回も楽しい仕事だった。対談の会場を快く貸してくれた東京芸術学舎の関係各位にも感謝している。最後に、本書のテーマについて有益な方向性を示してくれたダグラス・ラミス氏の著書『経済成長がなければ私たちは豊かになれないのだろうか』に感謝する次第である。一〇年以上続く問題意識を醸成してくれる書籍に出合うことはそれほど多くない。こうした書籍と出合えたこともまた、僕の幸せを構成している一つの要素である。
 「電力が不足すると経済成長は鈍化する。それは困るから原子力発電所を再稼働しよう」。こうした思考から抜け出す必要がある。ラミス氏は、二〇〇〇年に書いた著書の最後に「放射能付きのユートピア」という言葉を登場させている。東日本大震災を経験した僕たちは、遅きに失するとはいえ、もう一度暮らしの実感から各人の幸せについて真剣に考えるべきだろうし、それを実現するための新しい「常識」を掲げて行動すべきだろう。それこそが、二万人近くの犠牲者と、いまなお「幸せ」から遠い状態に追いやられている人たちに対して、僕たちがどうしても取り組まねばならないことだと思うのである。


あとがきのあとがき───東京都青ヶ島村  藻谷浩介


 山崎さんの後書きのあとに、さらなる蛇足をお許しください。
 以下は二〇〇八年度に、朝日新聞が土曜日に出している別刷り「be青版」に五〇回連載した記事の、第四九回目の原稿です。日本最小の自治体である東京都青ヶ島について書きました。この本を最後まで読んでくださったみなさんには、私の言いたかった趣旨がよく伝わると思います。
 素晴らしい対談をしてくださった山崎亮さんへのお礼と、全国の地域の現場で頑張るみなさんへのエールも込めて、再録します。それではみなさん、お元気で。

東京都青ヶ島村
 人口二一四人(二〇〇五年国勢調査)、日本最小の自治体だ。
 東京より船で一一時間の八丈島からさらに七〇km南の絶海の孤島。全周が断崖絶壁で、南半分には巨大な火口が開く。「八丈沖の黒瀬川」(黒潮本流)を突っ切る困難から、往来は毎朝一便のヘリコプター頼みだ。海水をひんぎゃ(=火山の噴気)で三週間乾燥させた「ひんぎゃの塩」は全国に通販されるが、村の歳出一二億円に対し村税収入は四〇〇〇万円に満たない(二〇〇五年度)。
 なぜそこまでして住むのか、その理由は島の歴史にある。江戸時代半ばまでは、火口の中の池のほとりで豊かな農業が営まれていた。しかし一七八五年の大噴火で全島が被災、救難船に乗れなかった一三〇名が命を落とす。助かった二〇〇名は八丈島内の荒地に入植し、艱難辛苦の末三九年後に全員で「還住」(帰島)。溶岩で埋まった火口内をあきらめ山頂の北側斜面に甘藷畑を開拓、一一年後についに検地を受け年貢を納めるに至り、誇りを込めて「再興」を宣言した。
 当時の年貢も現代の天然塩売上も微々たるものだろう。だが生を受けた土地に根ざして道を拓き、微力でも社会参加を志す意思の尊さは、他所の住民に勝るとも劣らない。地震が多発する火山列島・日本に住まう者として、彼ら還住者の子孫の思いを否定できようか。
 拙宅の棚の奥に、かの地で買い求めた「青酎」の一瓶がある。島の甘藷を各家庭に受け継がれた麹で醸した、左党垂涎の幻の酒。民宿のおかみさんは東京からの注文の電話に「量がないの。どうしても欲しかったら買いに来て」と答えていた。人生のこれというひとときにこれという相手にふるまい、こういう島が日本にあったことを共に喜びたい。