「和」の都市デザインはありうるか
文化としてのヒューマンスケール

おわりに


 建築家やデザイナーは、与えられた建築敷地のなかで、できるかぎりの工夫を凝らし、努力と情熱を注ぎ込み、その場所にふさわしい建物をつくるべく格闘を繰り返す。だが、その敷地がなぜそんな形状をしているのか、周辺の敷地についてはどうか、といったことについてそんなに考えることはしないのではないか。それは考えてどうなるというものでもない、確定した与条件なのだ、というふうに考えるとそういうことになる。

 本書は、主として歴史のある都心市街地の敷地をとりあげて、これが建築物の敷地としてどのように使われてきたかを考察してきた。そのなかで、敷地形状と敷地利用の方法、そして建築物の形態が緊密に繋がっていることを記述してきたつもりである。つまり、敷地形状と建築物が絡まり合って、都市建築の定型が成立するわけであり、パリの中庭型共同住宅、ロンドンのテラスハウス、そして京都の町家を代表事例として、その事情を整理したわけである。そこでいえるのは、歴史を経てきた敷地というものは、おのずから建築物のしくみや形態を規定する性格をもつということであろう。建築家は、このような敷地の持つ性格を読みこなしたうえで、先記のごとくの格闘に取り組まなければならないのである。設計の与条件というのは、そういった読み込み作業を要するものであることを確認しなければならない。

 ところで、パリの中庭型共同住宅、ロンドンのテラスハウスについては今のところ、それぞれの都市景観の定型として存続し続けているが、わが国の都市の町家はすでにひん死の状態にあるといってもよいほどに、まったく異相のマンション群やビル建築に取り囲まれてしまっている。このような事態をわたしは、都市空間のチグハグ感−異なるボリウムとデザインの雑居状態−と呼んだわけである。町家は支配的な定型の建築物でなくなった。しかし「敷地の小規模性」は生き続けており、ここでどのように建築物をつくれば、都市空間のチグハグ感は解消できるか。このためには、敷地の性格を読み込み、この場所に投入されてきたデザインの方法・知恵を読みとる作業が効果的であろう。そういった流れを辿りながら考えを進めてきた。

 近現代の都市空間のでき具合から察するに、わが国においては、社会全体として取り組むべきであったそのような作業は成功裡には進まなかったというのがわたしの見方であるが、その要因を考えると、近代化以後の非木造建築化やこれを推進しようとする制度、あるいは社会的ニーズが、在来からの木造建築への無理解、木造都市のルールをまったく顧慮してこなかったことによるところが大きい。しかし、在来からの敷地・建築関係、つまり敷地は建築物を繰り返し更新し続ける舞台であり、上物(うわもの)は替わっても土地は変らないとする敷地感については、しっかりと踏襲してきた。おおむねそういうふうに考えている。

 非木造建築の増加と社会状況の将来像からすると、これまでのような変化の繰り返しはありえない。都市空間が一定のまとまりある外形をもつようにするには、どう考えればよいか。現代進んでいる事態は、敷地と建物の関係性を顧慮しようとしない、あるいは関係者たちがその術を見失ってしまった中で生じている、敷地と建物の関係性を無視して恥じない状況がつくり出しているのだといわねばならない。ここのところの矛盾が現今の都市空間の乱れをつくっているわけである。その幾分かについては本文にも記述したとおりである。

 本書の流れを総覧的にいえば、当初に述べた「建て替えは文化」から「個別敷地性が文化」であると考えることをつうじて、しっかりした敷地・建物の関係性をそなえた現代的建築をどのようにはめ込んでいくかという視座と方法の提案であり、そこに洋風と和風が絡まり合った現代日本にふさわしい都市空間デザインへの展望を示すということである。

 喫緊の課題は、在来の町家の作法やその集まりがつくり上げてきた都市空間の文化―とくにヒューマンスケールの伝統―を十分に踏まえたうえで、現代的技術による都市デザインの新しい定式を構築するということである。定型でなく定式といったのは、今必要なのは、模範答案を示すのではなく、答案をつくる考え方を求めるべき段階であるということである。この困難な課題に取り組み、また本書を書きあげようとした思いは、以上のような都市空間デザインにかかる大問題を解消していく方向性や指針を早急に見出す必要があり、いささかなりともその一端を提示する役割を果たしたいと考えたことによる。

 読み返してみて思うのは、結局のところ都心空間のあり方を論じることになったなぁ、という感懐である。この数十年の都市計画や都市デザイナーの取り組みは、都市地域の膨張・拡大にどのように応じるか、どんな市街地を新しく建設するのか、という命題に集中してきたと思う。既存市街地への目の向け方にしても、古いものを壊したあとにいかに新しい市街地、今までなかった都市空間をつくり込むかという展開のしかたに止まるものであった。そういう作業をわれわれは重ねてきたのではあるが、しかしこのような作業の積み重ねの先に、ほどよいデザインをもった都市空間が形成されていくという見通しをもてない。まだなお試行錯誤の繰り返ししかないのだろうか。

 そんななかからひきだし得る希望の細道のようなものを辿っていくと、都心空間のデザインを考えるところに行き着いた。うまく探し求めれば、都心にはわが国の都市社会と市民の暮らし方がきちんと伝えられてきている。そこは日本人の都市観・都市住まいの考え方のようなものが読みとれる重要な場所である。都市空間のデザインの未来を考察する作業は、都心地域からしか出発しえないということなのだと思う。

 都市デザインや都市計画に携わる専門家が今なすべきなのは、ふつうの市民が理解できるような都心生活像を提示すること、高密度に人びとが行き交う生活空間としてのイメージを指し示すことであると思う。それに向かうと確信できる建築やプロジェクトにしていくということである。専門家や事業者の符牒が走りまわる、ビジネス中心の都心空間ではなく、人びとの生活の伝統を読みとった向こうに、この国の風土や文化を反映した、それゆえに住みこなしやすさに満ちた都心像を構築できないだろうか。そういった作業は今からでも可能である、というのがわたしの思いである。

平成22年4月  田端 修