地域主権で始まる 本当の都市計画・まちづくり
法制度の抜本改正へ

まえがき

 
 2009年1月20日、ワシントンのモールを埋め尽くした二百万人の参列者を前にして、バラック・オバマ大統領の就任式が行なわれた。彼の基本的な主張は「変えよう」(チェンジ)だった。それにアメリカ国民は圧倒的な支持を与えた。
 2009年8月30日、日本では総選挙が行なわれ、誰もが予想しなかった政治的な雪崩現象が起きた。それは、単なる自民党から民主党への政権交代ではなく、機能不全に陥り、深い失望感を与えている「現体制」を変えようとする国民の強い意志の表われだった。
 実は同じような国民の意志が、自民党小泉純一郎指揮下の郵政選挙でも示され、変化に向けての国民の強い支持の意思表示があった。しかし、口先だけで、実質がともなわず、上辺だけの変化への政策転換が、逆に、国民生活の安定を脅かしていると感じられただけでなく、「旧体制」のさらなる腐敗と停滞が明るみに出てきたので、本当の変化を求める国民の声が、今回の結果として現われた。
 
 世界的に見ても、20世紀型の大きな政府の強いコントロール、大資本、労働組合などの大組織による中央集権的な体制による支配の時代は、すでに1980年代には終わっている。レーガン・サッチャリズムによる政治経済的な構造改革、社会主義国の崩壊がその現われであった。
 それに代わるものとしての市場原理主義による過渡期も百年に一度という経済不況を招き、今や新しい体制の構築を求める、ラディカルな変化を前提とする激動の時代を迎えようとしている。
 そのうえ人間社会は、差し迫った地球温暖化を自覚し、自然生態系の維持と再生、そのなかにある人間社会の持続性ある発展に向けて、エコロジカルな思想と技術のうえに、従来の生産構造、消費構造を変え、新しい経済運営と新しいライフスタイルを築くことに取り組み始めている。
 日本では、さらに人口減少、少子高齢化時代を迎え、高度成長期とは異なる優しい人間関係の再構築と、より濃密な人格の触れ合いが求められ、ケアの思想に裏づけられた成熟した地域社会の再生への努力が避けられなくなってきている。
 
 このような大きな社会変動は、私たちの都市や田園、人間の生息地(ハビタット)にどのような影響を与えていくのだろうか。特に、急速な少子高齢化を迎える日本人のハビタットはどう変っていくのだろうか。どのように変わることが求められているのだろうか。しかし、人々は変えたいと思っているのだろうか、それにできるだけ抵抗したいと思っているのだろうか。大きな「変化」へのうねり、新しい経済運営とライフスタイルが都市や田園の計画、ハビタットの計画に何を要求しているのだろうか。
 しかし、1980年に始まった中曽根民活も十分な成果を上げられず、経済は低迷したままだし、政治的な志が萎えたまま地方の荒廃だけが進む30年になってしまった。これに失望して大きな政治的な地殻変動が起こっても、中央の官僚機構に依存し続けて、足腰が弱まってしまっている今の地方政府に何ができるのだろうか。
 
 以上のような問題意識を持ちながら、今まで書き継いできた幾つかの小論文を編集しまとめたのがこの本である。
 それらの小論文は、時々の要請によって書かれたり、自ら書いたりしたものだが、それらを貫く大きな「あらすじ」とその背後にあるイメージが必ずしも明快に伝えられてはいない。そこでまず序章で、単純化、重複を恐れず、私が考えている「あらすじ」を要約する。
 この本を読む読者の生活経験によって、問題意識は大きく異なるだろう。市民の歴史感覚が他の都市とは違う京都や、私が比較的良く知っている富山や新潟も、それぞれ非常に違う課題群を背負っている。特に、国際的な資本が投資対象として考えるような経済的なポテンシャルを持っている東京圏の問題は、他の場所とはまったく違う問題の構造を持っていると思える。
 ここでは、私は全国的な視野に立って、主として地方の都市と田園を舞台として取り上げたい。複雑で分かりにくい構造を持っている東京の問題も、より分かりやすい地方都市圏の構造を理解し、それに対する処方を考えることによって、解きやすくなると考えるからである。また、地方の都市と田園の再生なしには、東京圏の人々を含め、日本人全体が、心理的にも安定し、落ち着いた、成熟した生活を送ることはできないし、日本が、時間の重みに耐える、アイデンティティーを持った生活文化を持続的に蓄積することはできないと考えているからである。
 
2009年11月1日
蓑原 敬