地場産業+デザイン


序 魂を込めるものづくり

 1970年大阪万国博覧会は6千万人もの入場者で賑わいました。その4年前、万博がカナダのモントリオール市で開かれた1967年は、次の開催が決定していた大阪万博の準備で多くの関係者達のツアーが盛んでした。私も、建築家、プロデューサー、デザイナーのグループ70人程度で、大阪デザインハウスのツアーに若輩ながら参加することになったのです。当時活発な動きをしていた大阪デザインハウスは、通商産業省のデザイン振興政策のもと、大阪市が設立した団体で、企業のデザイン振興を中心に活動していました。海外旅行が自由化される前で、1ドル360円、1人500ドルしか持ち出せない時代でした。その頃24歳の私は何とか参加費用を準備、大先輩の方々に混じって、最年少での参加でした。モントリオール市を中心にカナダ、アメリカ、メキシコを回り、最後はハワイで1泊です。特に思い出に残るのは、メキシコシティにあった民族博物館でした。館内に入ると直ぐに日本を思わせる遠太鼓が聞こえたのです。メキシコインディオの原住民の展示がほとんどでしたが、そのなかの1軒の農家が、まるで日本の農家を思い起こさせるものでした。その時ふと、私達の日本文化も、そのうち、このようにミュージアムでしか見られなくなるのではないか、と思ったのです。過ぎた時代と現代、そして未来。当時から私は何かをデザインする時、「少し未来」のことを考えるようにしていました。未来を知るには、過去が大切と考え始めていたこともあって、このミュージアムでの出来事は、私のなかで長く尾を引いていました。感性やものづくりの技、人々の知恵の伝承は、途切れることなく伝わることが大切なのではないか、と。
 今ならまだ間に合う。500年前のインディオの文化はすっかり様子が変わってしまいましたが、私達の文化は衰退したとはいえ、まだ日常に生きている。24歳の頃の日本の文化に対する思いの強さは、その後、1968年に1人の紙漉き職人に出会って、その仕事場を訪れたことで一層強くなりました。紙を漉く現場、そこはまさにタイムスリップしたように、自然と人間が見事に共生している現場だったのです。
 職人が体で憶えながら習得してきた技には、手触りや見た目、風合いなど、言葉では表しにくい感覚が巧みに生かされています。その職人達が長い時間をかけて培ってきた、魂を込めるという作業が失われることなく、ものづくりができたらという思いが、私が伝統工芸や地場産業の活性化に携わるようになった一つの動機でした。
 素材や技巧、そして使う人達のさまざまなアイデア、そういったものが長年に渡って集積されて、素晴らしいものに発展していきます。しかし、そういった要素を全部取り除いた時に何が残るのかを考えると、そこにはそれを作る人の心意気や、込めた魂が残るのです。魂が込められたものなのか、そうでないのかによって、同じ素材で作られたものでも、全く違う値打ちになることを発見したのです。例えば、板前が命のように大切にしている包丁もその例です。それはただの包丁ではなく、鍛冶職人が魂を込めて作ったもので、その伝統が生かされているに違いない。それこそが日本の財産に違いないと思ったのです。そして心をこめて料理をする。ものづくり国・日本の未来の大きなアイデンティティが、極める、ものに魂を込める、といった、一見すると分かりにくいことであっても、この上なく大事なのです。
 職人が作りだすものはもちろん、そのプロセスの一つひとつの手の動きが、時を経て無駄なく洗練され、美しい。「魂を込める」作業そのものです。素人には到底立ち入ることのできる領域ではありません。しかし同時に、現代の生活で使われる新しいものを効率良く作らなければ、日本の伝統産業はなくなってしまう、という危機感は、私が地場産業の活性化に関わり始めて40年程の間、強まる一方なのです。
 私が伝統工芸に携わる職人と仕事をする最初の機会に恵まれたのは、1960年代の終りにイタリアへ渡って直ぐのことでした。ミラノの照明器具メーカー、ビルーメン社から照明器具のデザインを依頼されたのです。私は日本を出る直前に知り合った岐阜県美濃の和紙職人、古田行三氏に連絡をとり、昔ながらの「すかし」の技術を再現していただいた末、面白い表現の照明ができあがりました。この時にできた〈TAKO〉(p.23)という照明は1971年にイタリアから発表して以来、今に続く長寿命商品となっています。
 私はこの時以来、地方から伝統産業製品に関する依頼があるごとに、デザイナーとして自分に何ができるのかを考えてきました。石川県輪島の漆、佐賀県有田の有田焼、青森県津軽の津軽塗り、鳥取県の青谷和紙、神奈川県小田原の寄木細工など、これ程多くのジャンルで、高い品質の伝統工芸を持つ国を私は他に知りません。しかも、一方では、新潟県燕のステンレス製品や福井県鯖江の眼鏡、大阪の椅子張りなど、伝統的な技だけでなく、近代産業から生まれた技術を磨いて、発展している地域もあります。
 時代と共に伝統産業をとりまく流れは変わり、大量生産の多くの生産地は労働力の安いアジアに移っていきました。その結果、コストに関しては、日本は置いていかれてしまった感があります。今、そこから方向転換し、ブランド志向に走り成功した企業や工房もありますが、昔ながらのものを作る産地の多くは今、消滅寸前にあると言って良いでしょう。 その背景には、単純にものづくりの話以外に、私達日本人の暮らしぶりや価値観の変化が関係しています。

納戸化する住まい、伝統工芸の衰退
 日本には、江戸の鎖国時代に心豊かな暮らしを背景に独特のものづくりの考え方が生まれました。ちょうど、酒やワインが樽の中で熟成されるように、江戸期の日本はそれまでに取り入れられていた、中国や西洋からの文化が、島国で醸造されたと言って良いのではないでしょうか。そこで育まれたものづくりの心は、メイドインジャパンの土台ともなったのです。そして戦後、輸出立国として自動車、精密機器などが急速に日本の産業を支えてきています。しかし、技術先進国と言われながら、豊かさは日常の暮らしにまで至っていません。住環境や町並みにおいて、大変劣悪な状況が、国を覆い尽くしている。戦後急ピッチで建てられた狭い集合住宅は、いまや、納戸化が深刻な状態になっています。狭小マンションの多くはモノであふれて、片付かない。以前からすると、人を家に迎えるという習慣がずいぶん衰退してしまった。
 例えば、舞台演劇には舞台とそれを支える楽屋があるように、住居の中にも舞台と楽屋があります。今、日本の集合住宅はまさに舞台を失って、家の中はほぼ楽屋のようになってしまっているのでしょうか。
 そうであれば、これは次の文化や産業の土壌が危うくなっている兆しでもあるのです。人が家に集って楽しい会話がある。ただそれだけのことが暮らしを豊かにするのに、残念ながらもはや納戸化が進む家ではそれが希薄になっている。人と人とのコミュニケーションの不足が急速に広がったのも、住環境における納戸化と関わりがあるのではと考えるのです。
 アジアの国々でも一般的な住宅が、欧米並みの広さを持っていることは珍しくありません。シンガポールでは、思い切ったナショナルプロジェクトが実行され、一般的な住宅の広さを120に決めたのです。1985年頃より、韓国はそれ以上に大きな住宅が計画され、そして実行に移されているのです。多くのイタリアの家具メーカーは、韓国の家庭用家具市場を輸出先として、業績を伸ばしつつあるのが現状です。

伝統を日常に取り戻せるか
 このような住環境を抱えた状況で、伝統工芸の活性化のためにデザイナーができることは、長い時間をかけて培われてきた生活や、職人の手で作られたものを、まずはどのように日常生活に取り戻すか、という課題に取り組むことでした。
 伝統工芸の多くは自然素材を巧みに利用してできていますから、限られた素材をどう使って答えを出すか、ということも重要でした。例えば照明器具〈TAKO〉に関しては、近代的なアルミの部品と手漉き和紙を組み合わせて作ったのですが、この経験はその後、私が伝統産業の活性化に取り組む際に、大きなヒントとなりました。
 職人の技術と限られた素材を生かし、新しいテクノロジーも考慮して、現代の暮らしに合ったものを作る。実際には、誰がスポンサーになるのかといった経済的な面も重要ですが、大切なことは、そこに使い手があり、そして作り手があるという原則です。
 暮らしの道具を作り、それが使われるための土台、生活文化そして経済、産業ベースを作ること。産業の存在価値を明確にするという、基本に関わることをテーマに、意識的にデザインとプロデュースの仕事を同時に進行してきました。
 伝統工芸はアートとは呼びません。それは、その背景に常に時代の流れに沿っている生活と産業としての一面を持っているからです。ただ一方的に懐古的になったり、ひたむきに美しいものを作るだけでは持続しない。デザインするだけでなく、使い手に着実に届けるための仕組みにも注目しなければ前に進みません。
 もう一つ、私が伝統工芸の活性化に携わる時、大切にしていることは、「必ずうまくいくはず」という想いを持ち続けることでした。地場産業・伝統工芸とデザイナーのコラボレーションはこれまでにも多くの試みがなされてきましたが、その多くは成功したとは言えなかった。現在置かれているような困難な状況でまず必要なのは、もう一度、生活のなかに入ってゆける産業として、また、後に続く人達の励みとなるような成功事例です。そして機械やコンピューターと職人魂とのコラボレーションなのです。

高付加価値製品に求められるオリジナリティ
 日本の伝統工芸が直面している問題の一つは、マーケットの開拓です。コストの低いアジア製品が大量に入ってくるなかで、本物の職人達がどう生き残っていくかでしょう。
 これからの地場産業には、コストを下げることだけではなく、世界に通じるものを作ることが大事なのです。数百年にも渡って、体で憶えながら伝承されてきた職人達の感性やものづくりの精神は、日本の近代産業にこれからも大いに役立つに違いない。日本の製造業においては、安価な大量生産品だけでなく、いろんな意味で感性の高い、高付加価値商品を作らなければならない状況になっているからです。
 そして高付加価値商品にはオリジナリティが必要なのです。日本の伝統工芸には、大抵の場合、職人が魂を込めた末に極められたものとしてのオリジナリティがあり、人を感動させる力がありました。それを、現在の日常生活で使えるものづくりに生かし、欲しいと思う人にタイミング良く伝え、届けること。そういう意味で、流通やマーケットの問題も重要事項で、全体をプロデュースできる人材も必要です。
 現在、世界的な流れとして、自然と共に生きる暮らし方が提案されています。もともと自然と共にあった日本文化にとって、これは追い風となるでしょう。長い間、日本はエコロジー文化を育んできたのです。実際、環境問題に対して回答となり得るものも多いのです。使う程に手で磨かれ、色が落ち着き、風合いが出て良い、というものの考え方は、いまや「便利な使い捨て」よりも、ポジティブで、「少し未来」といえます。
 例えば漆の場合、日本の山々で採れる漆は品質が良いとされていました。輪島には、「地の粉」と言われる古代のプランクトンが化石化してできた地層の土を、焼いて粉状にしたものがあり、漆に混ぜて塗ると強度が増す、といったこの地方独特の技法が創出されてきました。身近にあるものを有効に使って、より優れたものにする技を何世代にもわたり、時間をかけて職人達が極めていったのです。鎖国の間、豊かな自然と暮らし、藩主大名や商人達が、良いものを職人達に作らせたことも、伝統技術を育みました。それは、世界でも特別なアイデンティティとなって、エコロジー文化を形成したのです。

マーケットを日本の外にも
 2006年、ミラノの新しい国際見本市会場、38万全館を使った最初の展覧会として、家庭日用品の国際見本市「マチェフ」が開催されました。この時、イタリアのパートナー国として選ばれたのが日本でした。その頃、ヨーロッパも、安い中国や東欧製の製品が津波のように押し寄せ、打撃を受けている状態で、高品質という別の価値観で次の時代に向かわなければならない、それを日本に発信して欲しいという依頼でした。私がプロデューサーを依頼され引き受けることになり、地場産業をもつ地域や企業に声をかけました。
 会期中、フランスの老舗ファッションブランド、クリスチャン・ディオールのバイヤーから、桐と小田原細工を組み合わせたトレー、そして津軽塗の器に“Dior”の名前を入れて、パリの店で販売を検討したいと申し出がありました。きちんとしたものづくりをしているところには常に次の可能性があるのです。この話は、後に価格が課題となり、サンプルに終わりましたが、もう一息です。日常生活でハレの場に使う漆器などは、国内市場が停滞しています。ならばマーケットを世界に見出すのも一つではないか。日本と世界のマーケット、両方を開くようなブランドづくり、これがこれからの地場産業の目指す方向の一つなのではないか、これ迄の40年間、試みを続けての結論でした。