町家再生の論理
創造的まちづくりへの方途

おわりに─謝辞に代えて

 私が京都に来て15年がたった。この間どうしたら京町家が残せるかを考え続けてきた。そして、京町家に関わる多くの方々と様々な活動を続けてきた。その中心は京町家再生研究会の皆さんであり、町家に関わる様々な団体の皆さん、そして町家に暮らし、ご商売をする皆さんである。活動の都度、私が学んだ都市計画の視点から、私なりの方法ではあるが、どうすれば町家が残り、町家の町並みづくりができるかを提案してきた。
 最近、皆さんの活動の成果はようやく形になってきたと思う。それは、私自身が思ったよりも速く進んでいると密かに喜んでいる。だから、それをちょっとばかり誇りに思う気持ちになることもあって、この経緯を本にまとめようと思った。
 京都との出会いは、恩師、京都大学名誉教授三村浩史先生のお陰である。1990年に先生の主宰する「チェントロ・ストリコ研究会」で京都の研究に加えていただいた。研究の中心をリム・ボン先生(現・立命館大学)が支えていた。イタリア語で「歴史的都心部」(Centro Storico)と題されたことからも、先生の大きな狙いが分る。その後、私はイタリア都市の歴史的都心部の保存と再生に関する学位論文をご指導いただき、今日に至った。先生は今や、京都市景観・まちづくりセンターの理事長として京町家再生全体を率いている。京町家再生研究会顧問でもある。やはり、三村先生のご紹介で、当時勤務していた国際連合地域開発センター研修事業の一環で、インドネシア・ジョグジャカルタ州の3人の専門家と見学に訪ねた吉田孝次郎氏の町家が「生活工藝館・無名舎」である。吉田先生も再生研顧問である。三村先生とご一門の皆さんは、その後もインドネシアでチェントロ・ストリコ研究を続けておられる。
 小島冨佐江さんを私に紹介してくれたのは、京都市の寺田敏紀氏である。元助役の木下博夫氏の勉強会の席であった。場所は、百足屋、黒竹節人氏の店である。その後、寺田氏の紹介で京都市都市計画局の「職住共存地区ガイドプラン」、「京町家まちづくりプラン」の策定に加わり、「まちなみ審議会」の委員も務めた。京都市景観・まちづくりセンターの創設にもかかわり、現在も評議員を続けている。寺田氏は今や京都市景観創生監の要職にある。そして、都市計画局と景観・まちづくりセンターの歴代の多くの皆さんと長くご一緒できた機会が大きな糧になっていることは言うまでもない。今も、センターの皆さんとは町家に関するお仕事を続けている。深く感謝する。
 その後、京都府立大学学長(当時)広原盛明先生のご厚意で、念願の京都の大学に職を得た。そして、小島さんのご紹介で京町家再生研究会に加わる幸運を得た。設立の翌年である。顧問で前会長の望月秀祐氏、現会長の大谷孝彦氏を始め、幹事の皆さん、会員の皆さんの厚いご支援で、本書で述べた調査、研究を続けてきた。
 トヨタ財団の研究助成による調査では、実に多くの町家住民の皆さんのご協力をいただいた。貴重なお時間をいただき、アンケートにお答え下さった。また多くのお宅が、学生と共に私たちを受け入れて下さった。お書きいただいたこと、お話いただいたことの一つ一つを今も読み返している。残念ながら、そのすべてを本書に記すことはできなかった。何人かの方とは今もお付き合いがある。また、お宅の前を通るたびに思い出す。しかし、250軒に及ぶ皆さんにはたいへん失礼ながら、失念している方がいる。時々お声を掛けていただくたびに恐縮する。とても懐かしく、うれしく思う。もちろん、記録は大切に保管している。本文でも記したが、建物調査について、京都市のデータベースは随分進歩した。
 また、京都市の町家まちづくり調査でご一緒したボランティアの皆さん600名がいる。ほとんどの皆さんがお元気でご活躍であるが、鬼籍に入られた方がいる。時が経つのは早い。しかし、皆さんの思いは少しずつ形になった。
 そして、この研究の中心を支えて下さったのは、私の研究室の学生さんたちである。最初、金本玉美さんと一緒に奈良町の調査をした。京町家は鳥山由紀さんが最初であった。その後、中川史子さん、岡村こず恵さん、惣司めぐみさん、山野高広君、天野久美子さん、萩原麗子さんが、次々と京町家に関する優れた卒論、修論をまとめた。そのために、町々を歩き、写真を撮り、アンケートを解析し、頻繁に訪問ヒアリングに出かけ、膨大な記録をとった。特に、鳥山さんは都心田の字地区の町家悉皆調査、中川さんは町家住民ヒアリング、岡村さんは大工工務店、天野さんは再生店舗、萩原さんは西陣での調査に、それぞれ膨大な時間と労力を費やした。決して十分ではないが、その成果を本書に活用させていただいた。今も時折、きつかった町家調査を語り合いながら、成長した彼女たちと酒を酌むのは、私の最も幸せな時間である。山野君と私を除いて、なぜか皆女性、やはり町家は女性のものらしい。いつも敬服し、感謝している。
 京町家の悉皆調査は、学生時代に都市計画の指導を受け、前任の国際連合地域開発センター所長の佐々波秀彦先生が東京区部で手がけた「木造賃貸住宅悉皆調査」の方法に倣った。都市計画とは歩いて調べ、数えて地図にすることだと教わった。学生さんには迷惑だっただろう。私は、佐々波流の教育を今も受継いでいる。そして、役に立つと思っている。
 西陣の京町家倶楽部の皆さんには、彼女たちの一人、西陣出身の萩原麗子さんが事務局のお手伝いをしたことで、師弟ともども大変お世話になった。古材文化の会、関西木造住文化研究会、京都府建築工業協同組合、京都府不動産業協会、京都府建築士会の皆さんとは、今も一緒に活動を続けている。
 町家調査には鳥取環境大学(当時は京都大学)の東樋口護教授とその助手(当時)の橋本清勇先生(現・広島国際大学)が共同研究者だった。トヨタ財団の研究助成の研究代表としてご指導いただいた。小島さんが事務局長、やはり再生研の仲間である西巻優氏とともに、当時はお洒落な町家暮らし調査と呼んでいた活動を発展させてきた。
 東樋口先生方の研究室の皆さんも町家調査に従事され、その成果を本書でも活用させていただいている。また、同研究室の山口君は、都心田の字地区の優れたグラフを作ってくれた。その後、京都市の調査では、京都工芸繊維大学河邊研究室(当時)、京都造形芸術大学葉山研究室、立命館大学産業社会学部乾ゼミの皆さんにお世話になった。
 最後にもう一度、この本は京町家と題しながら、町家建築の本でも町家の歴史の本でもない。ほとんど京町家のことを語っていないことをお詫びする。その私も、もちろん京町家には強く魅かれている。街中にひっそりと残る町家の内部を見たいからこそ、250軒ものお宅にお邪魔した。それぞれのお宅で町家の魅力を恥じることもなくしゃべり続けた。さぞご迷惑だっただろう。でも、その感動はここでは書かなかった。読者の皆さんと町家まちづくり調査の仲間の皆さん方のほうがよくご存じだと思う。そしてそれは、私が都市計画から京町家とその住民の皆さんを見たためで、歴史的都市を創るための計画論だからでもある。イタリアで学んだ私は、現代京都の社会と建築・都市計画が抱える問題を明らかにし、その再生を目指そうとした。領域を超えた町家と都市の再生を示したかった。
 これは、町家調査で知り得た現状から京都の将来像を描く試みでもある。だから、多くの皆さんの京町家への思いとは違う形で本にした。京町家について実に多くの教えを受けながら、その成果を十分にまとめられなかったことを心からお詫びする。
 半世紀も前のことだが、大正生れの古風な父は、私の研究を見て「曲学阿世の徒だ」と一喝した。今でもそうかもしれない。再生研との最初の出会いの日、静岡県立浜松工業高校で、その父に教わったと京町家作事組理事長の梶山秀一郎氏が話して下さった。建築家、梶山氏の京町家への真剣なまなざしの中に、私はいつも父を感じている。その梶山氏はいつも私を御用学者だと笑う。
 小島さんたちが訪ねたイタリアで古い邸宅のご主人と詳しく語り合えたのは、菅野琴・アルフェオ・トネッロットご夫妻のご厚意だった。長年ユネスコで文化遺産の仕事をされた。今はビチェンツァにお住まいで、時々小島家に応援に来る。また、武蔵野美術大学の長尾重武先生とは、ローマでお会いし、その後町家再生のご支援をいただいた。
 イタリア都市研究の恩師には、建築家・河原一郎先生がおられる。法政大学のコミュニティ計画論の講義で、イタリア都市を語られる時、建築よりもイタリア人について多く語っておられた。人々の生き様に眼を向ける都市計画論は河原先生に学んだ。前著『中心市街地の創造力』をお送りしたが、宗田君は研究の方向を変えたのかと言われたと聞いた。そうではない。だから、この町家の本こそ、まず河原先生に読んでいただきたかった。先生が亡くなられた昨年6月には脱稿していた。しかし、その後の道が長かった。
 時間はかかったが、学芸出版社の町家本の一冊になった。京極社長が隅々まで読んで下さり、担当の前田裕資氏、中木保代さんには、長い期間いろいろご迷惑をおかけした。また、社員の皆さんには、京町家再生研のニューズレター、ブックレットで日頃からたいへんお世話になっている。重ねて感謝申し上げる。
 さて、再三述べたように、この本は恩師陣内秀信先生の『イタリア都市再生の論理』を出発点にしている。書き終わってみると至らない点が多いことに気づく。その最たるものは、先生の情熱的な語り口である。京町家再生の論理が広がることを切に願っているが、かつて私が感動した力強さを本書に込めることはついにできなかった。不肖を恥じつつ、陣内先生に深く感謝したい。
 皆さんにお詫びすることは多い。そして、あまりに多くの皆さんに感謝しつくせない思いでいる。

2009年立春、下鴨にて