町家再生の論理
創造的まちづくりへの方途

序章―京町家との出会い

町家住民、小島さんが訪ねてきた
 私の京町家への取組みは、中京の町家にお住まいの一人の女性と出会ったことから始まった。小島冨佐江さんである。直ぐに、そのお住まい、立派な京町家を見せていただいた。そして、京都の町家を守る相談を受けた。
 小島さんと会って、ある女性を思い出した。イタリアの自然・歴史環境保護の国民協会「イタリア・ノストラ」で活躍したテレーザ・フォスカリ・フォスコロ伯爵夫人である。ヴェネツィア元首の家柄、カナル・グランデ沿いの「カ・フォスカリ」邸に名前が残り、その横の邸宅に住んでいた。彼女は人々の尊敬を集めていた。この協会が守る歴史文化の重みを、他の誰よりも彼女がしっかりと担っていることを皆知っていたからである。
 この思いを強くしたのは、早速見せていただいたその町家が美しかったからである。美しいだけではない。ご主人の設計だという町家の内部は、私がイタリアで見た数々の建築修復のセオリーそのままであった。そして、その美しい歴史的建造物を末長く生き続けさせるために、住み手と建物に対する細やかな配慮がなされていた。日本人の私には、それが数々のイタリア建築の修復以上に細やかに美しく見えたことに、驚き、ワクワクしたことをよく憶えている。
 その小島さんが私の研究室に来られた。町家を守る研究助成を受けたいという。幸い、小島さんの運の強さと関係者のご理解でトヨタ財団の助成を受けることができた。この研究で取組んだことは二つ。まず、ご一緒にイタリアに行ったこと。伯爵夫人とその家を見せるためである。立派な町家に住み続ければ、それだけで尊敬を受けること、そしてそれは人生を掛けるに相応しい価値を持つことを実感して欲しかった。
 次に、京町家を数えた。数えて、住民の皆さんにアンケートをお願いし、また約250軒のお宅でお話を伺った。小島さんは事務局長として私たちの研究を支えるとともに、ご自身の糧とされ、私が想像した以上に活動の領域を広げ、京町家再生をリードしてこられた。

町家がまちづくりの新しい流れを創る
 一方、私は町家のある京都の街を調べた。建築の立場から京町家を研究したのではない。だからこれは京町家の本ではない。京都の街を語り、町家とその住民をどう元気にしたかを語る本である。そして、私のイタリア研究の出発点である、恩師陣内秀信先生の『イタリア都市再生の論理』に帰り着こうとした。この本を持ち出したのは、ここに私の都市保存研究の出発点があるからだが、もう一つ、現在の日本はイタリアの1970年代に似ていると感じるからでもある。
 日本の人口は現在ピークを終え、戦後毎年100万人ほどの増加が続いたが、逆に70万人ずつ減少する時代になる。一方、他のEU諸国同様に、イタリアは一足早く1960年代後半に人口増加が緩やかになり、1980年の5,650万人がピークで、閉塞感が広がっていた。
 イタリアの1970年代の都市再生論とは、それまでの急速な郊外開発を抑え、老朽化した歴史的都心部の町並み再生住宅を整備し、都市の社会経済と市民生活を活性化することで閉塞した状況を脱しようというものであった。地方都市で、特に効果的だったこともあって、現在のイタリアでは、大都市に人口が集中する時代は終わり、地方都市に分散し、元気が戻ってきた。
 ただ、今の日本には1970年代のイタリアのような地方分権や歴史都市を巡る熱い雰囲気はない。熱意はあるが70年代とは違う。当時のイタリアのようにビジョンを語る指導者もいない。しかし、地方都市を再生するためには、「過去の建築・都市文化を継承しながら、人間の生活を包みこむ豊かな都市環境をいかに形成するか」が大切という意識が広がっている。それは、まず創造的な仕事をする人々から始まり、次に町家の住民の静かな意識変革につながった。そして一部の商業者が気付き、やがて市民一般に静かに広がっている。その意味で、京町家再生は市民運動でなく、新しい市民の暮らしの知恵であると思う。
 さらに、「都市再生の論理」を持ち出すのは、半世紀に及ぶ日本の歴史的建造物や町並み保存の流れが、景観法や歴史まちづくり法により新たな段階を迎えたからでもある。文化財の「伝統的建造物群」として町や村の一画を保存するだけでなく、都市全体を歴史・文化・景観というコンセプトで計画する。つまり、「文化的アリバイ」として単体の建造物や都市の一部だけを保存する時代は終わったのである。
 とはいっても、何も変わらないと思う人は多いだろう。法律ができたからといって、日本の都市は簡単に変わらないと私も思う。しかし、景観法の背後には確かな現実もある。その一つが町家再生である。景観法を知らない市民でも、その意味を実感して暮らしている。文化的アリバイではなく、京都では町家の景観に暮らしの文化が息づいている。
 そして、今日の京都では町家は文化財としてだけではなく、不動産としても評価されるようになった。2005年には長屋再生の「御所東団地」が特別優良賃貸住宅として貸し出された。そして、空前の町家ブームの中、店舗や住まいとして町家を求める人々が市内の不動産屋に列を成している。

町家再生が開いた住まいの新しい形
 町家に暮らす多くの人々は大分元気になってきた。新たに町家を手に入れて住み始める人が増え、町家で事業を始めた人はもっと多い。老舗も頑張っている。その町家は、伝統的であるだけではない。新たに手が加えられ、いきいきと輝いている。
 これを保存と区別して町家再生という。古い町家に手を加え、その美しさを理解した上で、それを損なうことなく、元より美しくする。町家で暮らし、働く住民の必要を新たに満たすだけでなく、町家だからこそ可能な機能とその高い質、美しさを備えた改造をし、次の100年の風雪に耐える強さを補う。この新しい建築行為が京都で急速に発展してきた。
 再生町家の住民は、単に保存しようとしてはいないから、義務感で我慢して住んでいるのではない。いつ手離してもいい。その方が金銭的には楽なことも知っている。伝統の仕事の都合があるわけでもない。だから、薄暗く寒い古家の不便な暮らしを悲しんではいない。多少の我慢があっても、自ら誇り、皆が憧れ、羨む町家ゆえの個性的な生き方や仕事を見出している。町家の薄暗さや多少の不便さを、むしろ住まいのメリットとして快く感じ、品格のある暮らしを選んだのである。だから、そんな人々の住む町家は、もはや時代からとり残されてなどいない。むしろ、時代をリードしているように見える。
 そんな住民・事業者を支える建築家・大工による町家再生の取組みも、研究・実践を超え、事業として普及した。家族の手を離れた町家も、不動産業者が市場に流通させる仕組みを整えた。町家住民の輪が広がり、それぞれに多様な取組みを続ける数々の市民組織の活動によって町家の魅力は新しい住まいの文化として定着しつつある。そして、町家レストランは、市民はもとより観光客にもすっかりお馴染みになった。町家ホテルも増えた。町家は、見るだけの歴史的建造物ではなく、是非住んでみたいと思う、未来の住まいの一つの選択肢になってきた。
 だからまちづくりも変わってきた。2007年から京都市は新しい景観政策を始め、地域特性に沿った景観形成を目指すとした。旧市街地全体を「歴史的市街地」とし、中でも京町家の町並みがある中心地区を「歴史的都心地区」と定義した。そこでは、まず京町家と調和する新しい建築物の高さを15mとし、従来の31m規制を一気に強化した。加えて町並みを整えるデザイン・ルールや「歴史的景観再生事業」に真剣に取り組み始めている。
 また、2003年の「京町家再生プラン」により、市民組織・京町家ネットなどと「京町家ネットワーク」を持ちつつ、(財)京都市景観・まちづくりセンターが様々な町家支援事業を続けている。また、京都不動産投資顧問業協会と京町家ネットなどが中心になり、「京町家証券化事業」も実施された。町家に住み続けたい、住みたい人の期待に応える制度である。
 施策は急速に整えられた。こうして、できることは一通り出揃ったかに見える。しかし、まだできていないことはもちろん多い。住民も生業も付き合いも変わってしまい、町並みを支える地域社会の維持は困難である。町家再生は広がったが、準防火地域である京都の街中で、現在の建築基準法で既存不適格とされる町家の再生には様々な障害がある。一方で、進みすぎた町家ブームによって、町家をよく知らない人までがブームに乗って、町家を壊すような改造を進めている。だから、まだこの先やることは多い。
 そうはいうものの、町家再生を進めた人々は、もっと先を見据えている。日本人の暮らしと住宅、街のあり方を根本から変えなければ、町家再生の狙いは達成できない。大量生産・大量消費・大量廃棄される住宅は、環境にも大きな負荷を与える。そして、便利になりすぎた住宅での暮らしは、人や家族の生活能力を脆弱化し、住宅の集まりとしての地域社会の絆を弱め、町や村の力を内側から衰退させているようにも見える。
 現代人は家への関心を失った。傷んだ箇所を直すことも知らず、嵐の備えも寒暖の設えも関心の外にあり、災害にも弱い。それに対して、町家で暮らすことは、自然素材の家で手づくりの建具や家具の手入れを続けながら、寒さや暑さに備える暮らしである。家を中心に力を合わせる家族のつながりがある。だから、町家再生を進める人々は、住まいのあり方から自らの暮らしを見直したいと思っている。京町家の保存とか、歴史都市・京都の景観づくりでは満足しない。京都の経験を通じて、これまでのわが国の建築と都市のあり方に新たな提案をしようとしている。

都市の創造力を伸ばす町家再生
 「都市は古い建物の必要を痛切に感じている」といったのはJ. ジェイコブスである。新しい建物との混在は、街に活気をもたらし、新しい事業の孵卵器にもなるといった。この主張は、その後半世紀を経て世界中で認められた。現在の高齢社会では、様々な意味で身近な古い建物の必要性を痛切に感じる人がさらに増えてきた。高齢者は郷愁を感じるからかもしれない。しかし、創造的な若い人々は逆に古い建物に未来を見出している。そして多くの市民も町家の様な古い建物が創造的な仕事や生き方を伸ばすのではないかと気付き始めた。
 40年経ってイタリアの都市再生の論理も変わった。全面的な保存をめざして都市計画的な介入方法の是非を議論している間に、現実の都市は大きく変容していた。何とか形は残ったが中身は変わった。しかし、それはよく変わったのだろうと思われている。イタリアの都市にとって「伝統とは成功した革新である」ということになる。
 今でも、京都では町家ブームを一過性と見るむきが多い。しかし、イタリア都市再生の論理の40年の歴史を振り返る時、私は町家再生の流れの中に、今後の日本の都市のあり方を問い直す革命的な変化が読み取れるのではないかと思っている。「都市の思想の転換点としての保存」である。

未来の都市を拓く町家再生
 町家再生もいち早く始めた人はすでに20年、小島さんや私が参加しているNPO法人京町家再生研究会も16年間活動を続けてきた。活動は町家を守るだけでなく、生き続けることへと広がり、もう一度町家を創りたいとも思っている。また、町家再生活動は多くの住民を知ることで、その新しいライフスタイルを受入れ、暮らしの創造を支援するまでになった。市民運動としても、京都の都市開発圧力に抗うことから、都市の未来を提案することに発展した。しかし、その根底は町家の住民の視点から離れてはいない。
 これは京都という都市の未来を、幻想の中にではなく、過去の蓄積の延長に求める都市計画論である。人々が記憶の集積によって文化的に生きることと同様、都市は過去の集積の上にこそ、個性ある文化的に豊かな未来を創り得る。市民の身近な暮らしや事業の中に町家を位置づけることが、よりよい未来を拓く方途になるという主張である。そして一連の問いかけ、「どんな家に住むか考えてください。それはあなたがどんな人生を送るかの問題です」「新しい家に慣れるより、古い家の快さを知る方が幸せです」「古いってお洒落なことですね」「古い家ではアートが事業になりますよ」として、京都から全国の地方都市に発信している。
 町家再生には、住まいと暮らしを「守りたい」、子供から高齢者までが幸せに暮らす家のあり方を「伝えたい」、よりよい住まいを求める住民と、住まいを生産する大工職人を「支えたい」という3つの願いがこめられている。これらの願いを着実に果たすことで、都市に未来をみる次世代の人々の創造力を育む孵卵器としての町家であって欲しいと思うのである。言うまでもなく、全国の多くの町でも、町家は地域性豊かな伝統的都市住宅であり、その町の人々の記憶を伝えている。だから、町家とその町並みを守ることで、各地で消えてゆく恐れのある地域固有の暮らしと生業を取り戻すことができる。これが、現代社会が求める地域社会の再生、地方都市の復権でもある。
 これを、本書では「町家再生の論理」と捉え、京都での町家再生の取組みから著者が学んだこと、町家再生に取り組む人々が教えてくれたことを述べる。町家はなぜ失われ、また残ったかについての実態、町家にはどんな人々が暮らしているのか、そして町家の町並みが壊れた原因を探り、町家再生を阻む数々の問題点を明らかにしていく。そして、町家再生を始めた人々が、何に気づき、何を始めたかを述べる。
 第1部は、町家の実態を捉える「診察」である。1章で町家調査に基づく実態と数を、2章でアンケートとヒアリングから住民の皆さんの意識を紹介し、3章ではその多様な全体像を整理して示す。これらの章では、京都市による都心4区全体の調査と、その前に我々が調べた都心田の字地区調査の両方の結果を照らし合わせて述べる。
 第2部は、第1部をもとに町家が残らない原因を見極める「診断」である。4章では住まいづくりと借家の問題、5章では大工と町家の関係と、建築基準法の問題、6章では町家事業者の問題、そして7章では都市計画の問題として検討する。
 最後の第3部は「治療と治癒」である。これらの問題を克服しつつ、京都の皆さんが進めてきた町家再生の方途について述べる。8章で取組みの全体像を示した後、技術的・具体的施策だけではなく、人々の意識を変え大きく世の中を動かす基底となった取り組みを紹介する。 9章で町家の価値を見出した人々の話を、10章で町家事業者の動きを、11章で景観政策とその背景となった市民意識の変化を、そして12章で市民の力強い活動の数々を述べていく。
 町家が守れないという病を克服した町家再生論を通じて、この京都の経験が、多くの日本の都市に広がる可能性を示したい。それは、町家再生が、日本の都市を、そこに暮らす人々が望む形につくりかえる方途になると思うからである。