環境マネジメントとまちづくり


あとがき──川崎さんの残したもの

 自治体の職員にはさまざまなタイプの人がいるが、先進的な環境政策をおこなっているところでは、キーとなる職員がおり、その職員は多くの場合「公務員離れ」している。熱血漢だったり、饒舌だったり、ぶっきらぼうだったり、性格はさまざまなのだが、共通するのはだれとも同じ目線でつき合い、泥臭いことを厭わないことであるように思う。豊中市役所の職員だった故川崎健次さんは、これをスマートに穏やかにやってのける、特異な公務員だった。
  お堅い役所のなかにあって作業服姿で親しく市民と話をしたり、なかに混じって汗を流していた姿が、当時環境課で一緒だった佐藤徹さんをはじめ、多くの豊中市職員の目に眩しく焼き付いている。
  「制度や仕組みも市民の声を取り入れるだけでなく、一緒につくっていく、つくっていける、そういう時代だよ」。生ごみ堆肥化、学校ビオトープなど、川崎さんが「とよなか市民環境会議」の皆さんと手がけたことは多い。パートナーシップの方向性、ローカルアジェンダの考え方、市民活動のあり方や問題点などを、病室においても市民環境会議の皆さんに熱っぽく語ったという。自治労や環境自治体会議を通じ、須田春海さん、田中充さんや増原直樹さん、それに私と共に、全国の環境自治体づくり運動にも関わった。
  大阪府下の他市の職員と技術士の勉強会を開いてその資格をとり、立命館大学の社会人修士課程で修士号をとった。それにも飽きたらず、植田和弘先生の門をたたいて京都大学の博士課程に入り、山本芳華さんと同級生になった。留学中の中島恵理さんを訪ね、イギリスのローカルアジェンダやコミュニティガバナンスについて研究した。
  亡くなる半月前には病院を抜け出し、川崎さんが主宰者の1人であった「環境パートナーシップ研究会」の会合に1人で顔を出した。意識不明になる4日前には、大阪産業大学で依頼されていた講義の最終回を終え、さらにその足で京都へ行き内藤正明先生と話し込んだという。「全国の環境パートナーシップの事例を調べたいので教えて欲しい」。意識不明になる2日前にも、高橋秀行さんとのメールの記録が残る。また植田先生には博士論文の構想をメールで送り、打ち合わせの約束もしている。植田先生は何か執念のようなものを感じたという。しかし2003年7月23日、55歳の若さで帰らぬ人となった。
  「温暖化防止ですわ」。川崎さんは生前、池田市の自宅から豊中市役所まで3駅分を小一時間かけて歩いて通っていた。川崎さんの奥様、真澄さんの実家に5月の農繁期には毎年必ず行き、きつい農作業を終日手伝い、4〜5日間の苦労も顔に出さず、笑顔で助けていたそうだ。その真澄さんは小学校の先生をされており、この4月に転勤になったというが、校庭の隅には川崎さんが完成に向けて関わったというビオトープがあり、PTA活動としてこれを活用した行事も組まれているそうだ。3人のお子様も、お父さんの思いを胸に、それぞれの道を歩み始めているという。

 「新しい地域のビジョンを、地域を構成する多くの利害関係者の参加と協議によって合意し、パートナーシップの力で推進していくことが今日の時代の自治体行政における最重要課題である。そのためには、地域変革の主体として自己変革できるような仕組み、すなわちPDCAサイクルに基づいた環境マネジメントシステムを構築することが重要である」。この文言をはじめ本書の3.5節は、川崎さんが病床を押して書いたものを転用したものであるが、川崎さん自身の深い経験と鋭い洞察に基づいて書かれている。そして、奇しくも本書の結論にもなった。
  「硬直化し疲弊化した地域政策を持続可能な発展に向けて転換するためのリーダーシップを発揮することができなくなった行政に代わって、市民が単に地域社会に参加するだけでなく、社会的に必要な持続可能な発展化への政策転換の一部を担うことが求められている」。まさに川崎さんが市職員としての実践を通じて感じ取ったガバナンスの理想像である。
  川崎さんが残したこれらの主張は空論ではないし、空論にしてはならない! 本書の10人の著者をはじめ、川崎さんの考え方に共感し行動を共にしてきた市民、公務員、研究者、コンサルタントなど、多くの人々がそう思っているのである。そしてこの本を手にしてくださった皆さんも、新しいガバナンスの担い手として、それぞれの立場でご活躍されることを願ってやまない。

 なお、このあとがきを書くにあたっては、とよなか市民環境会議の皆さんの回想や、川崎さんを偲ぶメッセージ集に寄せていただいた原稿を参考にさせていただきました。厚く御礼申し上げます。
  最後に真澄さんをはじめ川崎さんのご親族の皆さんのご理解とご尽力でこの本ができたことに感謝し、御礼申し上げます。

中口毅博