おわりに

  まちづくり組織の重要さを自覚したのは、いまから二十年前、長野県南木曾町に小林俊彦氏を訪ねた時である。私の目的は、町並み保存の先駆けとなった妻籠保存のプロセスを当事者の小林氏から直接聞き出すことだった。きっかけとなったのは、妻籠の復元保存を指導した太田博太郎東大名誉教授から聞いた話だった。神保町の酒場で一献を傾けながら妻籠のことに話が及んだとき、太田氏は「あれをやったのがコバなのは間違いないからね」と感慨深げに断言されたのだ。コバとは、親しい人々が口にする小林氏の通称だった。
 当時、私はある雑誌で人物紹介の記事を連載していた。そこに町並み保存の先駆者を登場させたいと考えていたが、小林氏に対する評価には様々なものがあった。だが、太田教授の言葉には、周辺の毀誉を超越する強さがあった。その言葉に促されて、私は南木曾町を訪れたのである。
 小林氏に影響を受けて町並み保存に将来を託した地域は、妻籠だけでなく、世界遺産の白川村や愛媛県の内子町など、数多くある。特に白川村では、小林氏の講演が荻町の人々を保存へと動かし、今日の出発点となったものだ。ある人物の話が、地元で長く語り伝えられ影響を及ぼしつづけるということは、ざらにあるわけではない。
 よく光る眼を持った小林氏の風貌と方言混じりの談話は、強烈な印象を聞く者に与える。しかし、それ以上に私が驚いたのは、その町並み保存の思想だった。学者が喧伝する欧米の輸入思想ではなく、江戸時代中期から後期に盛んになった経世哲学を基礎にしていたからである。さらに印象深かったのは、小林氏の口から柴田鳩翁の名前が出たことだった。鳩翁は江戸末期に活躍した石門心学の啓蒙的布及者である。
 小林氏の町並み保存哲学は、「惣」という言葉に要約される。惣は中世末期に誕生した合議による自治組織である。小林氏は、この復活を妻籠保存の最終的目標としていた。町並み保存自体ではなく、自治的なコミュニティ組織の形成を念頭に置いていたのである。それは江戸期の経世思想家にも通ずる考えだった。
 「惣」は、自治的な組織がこの国に定着するために、まちづくりの観点から是非とも再検討されるべき民衆組織である。本書では非力のため十分指摘できなかったが、条件さえ整えば容易に現代のまちづくり組織として復活しうるものと思う。
 今年末、『季刊まちづくり』という雑誌を創刊する。そこではまちづくりの「成果」だけでなく、「活動」に着目して、各地の実例を数多く紹介していきたいと考えている。なかでも、市民の自律的な組織や自治的コミュニティに焦点をあてることにしたい。全国各地に「惣」のようなまちづくり組織が誕生し、ネットワークを形成することが本来の市民まちづくりを実現する必要条件と信じるからである。
 本書に掲載した文章は、『都市再生と新たな街づくり』(エクスナレッジ刊)に掲載された第六章を除いて、雑誌『造景』に発表したルポルタージュをベースにしている。最も古いものは取材時より六年以上も経過している。この間、組織変更や人物の異動、さらには惜しくも亡くなられた方々がおられる。ルポの手法は取材時点の姿をあるがままに伝えることを本旨とするため、修正加筆は最少に留めて、爾後の展開は十分に示さなかった。これらの動きは新しい雑誌で、改めて紹介していきたい。
 取材に際しては、本書に登場した人々だけでなく、数多く方々のご協力をいただいた。いちいち紹介する余裕はないが、末尾ながら深甚の謝意を表したい。また、上梓するに当たり、初出時は入れていた敬称を一切省かせていただいた。
 本書をまとめるにあたって、学芸出版社の前田裕資氏のお世話になった。同氏は新雑誌のよき理解者でもある。ここに謝意を表したい。

二〇〇三年夏

八甫谷邦明