喜多俊之 デザインの探険1969-
僕がイタリアへ行った理由

あとがき


 イタリアと日本を往復するという生活が40年近く続いている。ここに来て気になることの一つに、日本における日常の生活の様子があった。
 特に戦後建てられた2DKや3DKといった狭い集合住宅は、今やもので溢れ納戸と化した様相、そこにはずっと以前の日本のように気軽に友人知人を招いて、自宅で過ごすことが極端に少なくなっている。
 高齢化が進むなかで大きな問題となっている在宅介護の問題や、これからの経済・産業における製品のクオリティーの問題、内需拡大をどうするのかといった現実的な話など、それらがこのところ急にクローズアップされてきた感がある。まず、もので溢れた住まいをどうするのか、そのなかで子供たちや高齢者がどう過ごせば良いのか。韓国や中国、シンガポールといった同じアジアの住環境が大きく改善されている現在、日本の住環境はもう放置できない状況となっている。
 私はイタリアの暮らしを体験することで、日頃見えにくい日本の生活の断面を、少しでも読み取る努力をしてきた。
 デザインという言葉が自然に使われて暮らしの隅々まで行き渡っている社会をつくり上げることは並大抵ではないにも関わらず、北欧の国や他のヨーロッパ諸国がそうであったように、イタリアも戦争の荒廃から短期間のうちに素晴らしい生活文化を再構築した。その姿は私に、デザインとは日常の暮らしに直結したことであり、「日常の暮らし」こそが大切であるということを教えてくれた。
 今、アジアを始め世界では、デザインは新たな資源として捉えられている。
 イタリアや中国ではデザインは意匠ではなく「設計」として訳されている。その視点はとても重要だ。今や「デザイン」は経済・産業の方向を決める一つの大きなキーワードになっている。
 これからの日本にとって重要なことは、世界で一番のものをつくり上げて使いこなし、それを海外への輸出資源とすることである。技術開発と並んでデザインを育てることが、今急がれている。
 障子やお盆、風呂敷など、少ない資源で大きな効果を出すことは日本伝統の考え方に由来するもので、魂を込めてものづくりをする日本の職人の信念は、これからもずっと日本の財産であり続けるに違いない。そしてこれらは近代産業にもおいても大変重要である。
 素晴らしい花や実のなる作物を育てるためにも、その「土壌」である素敵な暮らしの再生は、最も急がれる大切なことである。
 日本の近代史のなかの、ものづくりに携わってきた多くの諸先輩方に習い、自然豊かな日本にしかできない技術で、新しいデザインをこれからもつくっていきたいと願っている。
 この本をまとめるにあたり、協力してくださった皆様に感謝いたします。
 学芸出版社の井口夏実さんを始め、多くの関係者の皆様に心より御礼申し上げます。