★タイトル


おわりにかえて──スギの一本一本と向き合って

  この本の題名をなんとするか迷った。当初私は「なぜ、いま木材・木造なのか」「もうひとつの木材」などを考えていた。私の研究のスタートは農学部の林産学科である。木材の性質・特性や加工を対象とする木材物理学や木質材料学を専門とする研究室である。「門前の小僧」「三つ子の魂」のようなもので木材にこだわるのである。出版社より「なぜ、いま木の建築なのか」という提案をいただいたとき、ある種の高ぶりと恐怖感を抱いた。木材・木造を介して建築に関わり35年余りになるが、今も建築を専門とするとはとてもいえない思いがあったからである。建設省建築研究所や木の建築フォラムなど「建築」と名のつく場に関係してきたものの、木材が根底にあったからに他ならない。したがって「木の建築」に託した思いは木材と建築の主従関係、対等関係を意図するものではなく、相互を思う思いやりのようなものである。今一度、持続可能をみつめ、環境保全、資源の持続性について木材利用から考える一助にしたかったのである。うまい言葉が見つからないがそのあたりの雰囲気をくみ取っていただければ幸いである。

  さて、最後に私の今のもう一つの生活を紹介して、おわりにかえたい。
  伐採後放置されていた山を購入して、スギ苗木を植林して5年目になった。2ヘクタール弱の面積であるが斜面あり、平地ありで、一人でこつこつやるには手に余る感がある。休日に出かけて下草刈り、水路の補修、土砂の崩れの防止などやることにはきりがない。仕事の都合でしばらくいけないと、夏場は悲惨である。竹や葛に覆われたりはまだいいほうで、平地ではつるまめや竹などにすっかり取り囲まれて、隠れて枯れてしまったり、窒息寸前のこともあった。どうにか救い出せたときには「何をぼやぼやしているのだ」とスギに怒られているようでもあるし、「やれやれ、助かった」といっているような感もあった。それらの植物同士の競争のすさまじさは「生物多様性」という言葉にありがちな、ある一面の優雅さとはかけ離れたものにも見える。太陽光の奪い合いや縄張り争いをしているところに人間が割ってはいることなのである。ここに人間が自ら生物資源を生産するときの冷徹さと同時に思いやりを実感せざるをえないのである。石油のようにすでにあるものを採掘してくる資源、言葉は悪いが略奪、とは基本的に異なる。言葉をかえれば共存・共生を意識せざるをえないのである。下草刈り一つとっても、私一人の能力、体力を考えるとそれなりの工夫をしないといけないことになる。しかしながら草刈機の化石燃料による動力を心よしとしないところもあるので、作業は柄の長い造林鎌である。スギ苗木と残したい草木の周辺のみを刈りとる「坪刈り」であるが、作業の省力化と周辺植物の助けを借りるためである。一見競争相手に見える植物も風や土砂の流入の防止や蔓などの進入の防波堤になってくれていることが少なくない。たとえば竹は目の敵にしたいことも多いが、真っ直ぐに伸び、太陽をうまく取り入れるようになっていると防風や寒冷対策となる。それによって冬場でもスギの葉が青々としており素直にのびていることもある。ところがその共存状態が崩れて、覆いかぶさったら枯れてしまう、悲惨さを味わうことになる。夏場の平地は傾斜地に比べると覆いかぶさるような草や蔓状のものの勢いが激しいので、作業主力をそちらに向けることになる。夏の炎天下での長時間の作業は禁物で、傾斜地は私の場合11月から5月の連休前までの冬場の作業を重視している。いうまでもなく夏場の生育状況を想定した作業であるとともに、作業の効率と安全を考えてのことでもある。いうまでもなく物事はそれほど簡単ではなく、枯れて悲しくなったり、蔓に絡まれて曲がってしまい反省したり、たくましく残っているのに励まされたりである。今私が相手しているのはスギ約5千本の集団ではあるが、やっている作業は一本一本が相手である。そんなこんなで、4年も経過すると成長のよいのは4mをこえたが、手入れの回らないのは1m程度である。個性なのか環境なのか言い訳など作りながらも、どれもそれなりに歴史があるのでまことにおもしろいし、一本一本がかわいい。それは基本的には教育の現場と同じである。木材学や木質構造、建築をやっているものは年輪や節を木材でみて色々良否を議論する。しかしながら今、私は山で早材がいつ頃からどんな形で葉がどんな状態のとき形成してくるのか、晩材はいつ頃停止するのであろうか、肥大成長と伸長成長の時期のずれはあるのかどうかなど、にらめっこしている。個性、地形、環境などの因果関係を簡単に理解できるはずもないが、千差万別な様相を呈する中に徐々にそれなりのルールがあることもわかってきた。産業となるとこの一本、一本の議論が忘れられることが少なくない。現在の我が国の社会の縮図、「総論賛成、各論反対」と重なってしまうのは考えすぎであろうか。季節の変化をウグイスや蝉の少しずつ上達する鳴き声に感じ、野外劇場の下草刈りをしながら考える趣味の「山いじり」はセレブやゴージャスと違い、誠に贅沢である。我々は見えるものは理解しやすいし、価値を単純にそれに求めがちである。しかし本来、五感を通じて見えないものへの価値を求めている。

 本書の計画当初、「住宅と木材」「グリーンパワー」「新建築」などの連載をベースに組み立てるつもりであったが、いざはじめてみると趣旨は変わっていないが、全面的に書き換えること、大きく追加することになった。データの基本となったものは「日本木材学会」「日本建築学会」「日本木材加工技術協会」「森林文化研究」などで発表した論文と拙著『木材の住科学』(東京大学出版会)、『循環型社会と木材』(全日本建築士会)である。
  最後に機会を与えていただいた滑w芸出版社京極迪宏氏、全体構成から一人よがりになりがち文章に適切な助言をいただいた越智和子氏に厚く御礼申し上げたい。

有馬孝禮
2009年4月