本書は木材や木造に携わってきた私が気になっている点を記したものである。したがって賛美、推奨することを目的としたものでもなければ、否定するものでもない。そこには読者がもっておられる前提や目的の中で判断してもらいたい思いがある。
私たちは古くより木造建築や木造住宅の主要資材として木材を使っている。現在は自然素材、天然素材の名のもとに使用されることの多い木材は、それ故に心地よい空間をつくると評価される反面、その強度や品質のバラツキなど、ある場面では不安材料ともなっている。
木材は持続可能な生物資源で、森林と都市との共存に向けて重要な橋渡し役を担っている。木材利用は森林におけるCO2吸収源の確保、化石燃料の消費を抑えCO2放出削減、さらには都市における新たな炭素貯蔵の道を開く可能性を有している。しかしながらこれらを認識している人は必ずしも多くないことを感じている。
私たちの周りには情報があふれかえっている。その情報の多さに、本来もっとも重要であるところの、比較することや連携にややおっくうになりつつある。ともすれは「誰にでもわかりやすく」という言葉の呪文に惑わせられているようにもみえる。「わかりやすく」は短絡的に割り切ることを期待しているようにも受け取れる。すなわち、そもそも同じ事象であっても捉え方はさまざま、多様である。そこには受け取る側一人ひとりに前提があるからである。ファジーやアナログの世界では1と0の間がある。そこにはあうんのいくつかの前提によるバランスが存在している。互いにすっきりしないと受け取られがちであるが、俗な言い方をすれば「まあ、こんなところか」「ほどほどに」という感覚である。これがなくなりつつある。忙しいため考える時間がないのであろうか、考えることがめんどうくさいのであろうか、時間が惜しいのであろうか。
住宅の長寿命化とストック流通の円滑化を目指す「長期優良住宅の普及の促進に関する法律」が全会一致で可決された。その第4条基本方針中で「国土交通大臣は基本方針を定めるにあたっては、国産材(国内で生産された木材をいう。以下、同じ)の適切な利用が確保されることにより我が国における森林の適正な整備及び保全が図られ、地球温暖化の防止及び循環型社会の形成に資することにかんがみ、国産材その他の木材を使用した長期優良住宅の普及が図られるよう配慮するものとする。」の一文が全会一致で加わっている。木材と木造に長年かかわってきたものにとってその変貌に隔世の感があるが、木造住宅、木材資源やその生産の場である森林との関係から考える時期にきたと思いたい。
都会と地方を行き来していると、いずれの方からも声がきこえてくる。あるときは同調し、あるときは疑問をもつことになる。消費地と生産地、中央と地方という括りでみていることにいささか違和感をもつことが少なくない。その根底には「自分のことは自分が一番わかっている」という思いこみである。すなわち「外からみた自分を一番知らないのが自分である」という認識をもっていないことである。さらに「相手のことを理解している」という思いこみもある。それは「自分の目を通しての相手を理解している」にすぎない。やや突き放したような表現かもしれないが、論争あるいはけんかのはじまりの要因はそこにある。都市と地域の議論の中で空虚さを感じることが多いのもそこにある。とはいうものの自分というフィルターを通すしか情報の交換はあり得ないので、自分という殻を可能な限り外して耳を傾けるしかない。
人類が木材や農産物のような生物資源を扱うことは、その生産活動や自然生態系に関わる多くの職種など空間(「場」)の連携である。と同時に生物を扱うことは世代間を越える、命の更新を伴う「時間」の連携をも対象としている。この「空間」と「時間」に対する連携意識こそ本書の視点である。 “Thinking globally, Acting locally”(地球的規模で考え、行動は地域で)は先人達と子孫の間に我々がいることを意識させる言葉でもある。
幸いにして、人々にはそれぞれ木材や木造に対する常識や思いがある。木材なんてと思う人もいれば、強い思いをもつ人もいよう。とくに日本人にとっては身近な存在であったから、その経験の中から好き、嫌いあるいは長所と短所を思い起こすのに困難さはさほどなかろう。そのとき、今までの常識もあろうが、その常識をいったん置いてみて、「もうひとつの木材」を考える一助に本書がなればこの上ない喜びである。
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