住まいと街の仕掛人

おわりに

私たちに問われている新たな課題とは
 私たち研究所の三〇年にわたる活動の軌跡を振り返ってきたが、二十一世紀という新たな世紀を迎えることになった私たちは、これからどのような途を歩めばよいのだろうか。
 本書で紹介したように、建築を環境の一部と捉えるスタンスや良質なコミュニティづくりを目指すこれまでの私たちの実践活動の方向は、少なくとも間違っていなかったと自負している。それは、近年盛んに紹介されているここ一〇年あまりの欧米諸国の動きと重ねてみても、いっそう確信を深められるものである。
 しかし、私たちの実践活動の軌跡はまた、正直に言って、一進一退の苦戦の連続でもあった。ほとんどが、限られた理解者の支えと、たまたまという偶然に恵まれての活動だったのではないかという思いが強い。しかも、わが国の現状を考えれば、〈住まい・街づくり〉を取り巻く環境は、ますます悪くなっていると言わざるを得ない。一つひとつの良い成果も、なかなか社会化され広まっていかない。全体像としては、あいかわらず、街は美しくならず、暮らしやすくならない。この現状を根本的に改革するためには、その前提として、私たち建築家は無論のこと、多くの専門家、行政関係者、とりわけ主体であるべき市民が乗り越えなければならない大きな二つのハードルがあるように思う。本書の終わりに、その二つの宿題を書き記しておきたい。

〈住まい・街づくり〉を支える〈都市計画理念〉の貧困をどう克服するか
 欧米諸国の都市計画制度に注目する時、その制度の背景に、都市開発や都市居住において、〈公共性の原則〉すなわち、「個人の短期的な資産運営よりも、社会的な福利を優先させる」ことに関して、社会全体がしっかりと合意していることを見逃してはならない。〈文化〉としか言いようのない〈都市計画理念〉を市民全体が共有しているのである。
 それにひきかえ、わが国の場合はどうであろうか。残念ながら、先進諸国の中で、わが国ほど〈建築自由〉の国はないと言われている。無論、わが国でも、個別的な法的規制は用意されている。しかし、こうした規制を個々の建築が遵守したからといって、それらの建築群によって良好な街なみが形成されるという保証はどこにもない。やはり、欧米のように、〈公共性の原則〉に立って建築の形態を規制する意思を都市計画が持たない限り、良質な〈住まい・街づくり〉は望むべくもないのである。
 しかし、今日の事態は逆行している。今回の都市計画法の大改正が、大幅な規制緩和を目標に進められたという事実や、一方で、そうした動きに連動して進められている昨今の突出した都市再生プロジェクトの進め方に目を向けるならば、未だ、経済至上主義の呪縛から逃れられないわが国の〈都市計画理念〉の貧しさを痛感せざるを得ない。この〈貧しさ〉をどう乗り越えるか。市民の総意として、私たちが総力を挙げて克服すべき最重要課題の一つとして考えたい。

市民全体が共有すべき〈都市空間像〉の欠如をどう克服するか
 欧米の都市計画制度で次に注目したいのは、先の〈公共性の原則〉の具体的目標を、持続可能な〈住まい・街づくり〉の実現に置き、その具体化の手法(コンパクトシティ)を積極的に展開していることである。彼らは「都市空間形態は都市の持続可能性に大きな影響を与える基本的要素である」という立場に立ち、その最適な空間形態こそ、〈コンパクトシティ〉なのだと主張している。
 この欧米の動きから読みとるべき重要な論点は、彼らが〈都市空間〉に着目した〈都市計画〉のあり様を問題にしていることである。何故なら、〈都市空間論〉の不在こそ、わが国の都市計画制度の、見逃すことのできない欠点だと指摘されているからである。
 その原因を一言で言えば、わが国に相応しい健全で個性的な〈都市空間像〉というものを、市民社会全体が未だに共有し得ていないからである。
 過剰とも言える数々の経済至上主義的な支援制度を容認しているわが国の都市計画制度の現状は、明らかに世界の潮流に逆行している。さらに言えば、こうした事態の背景には、〈都市空間〉に対する市民社会全体の無知、無理解が存在していると言わざるを得ない。私たち市民、行政、専門家は、今こそ、このわが国の〈現実〉を強く自覚すべきであろう。克服しなければならないもう一つの最重要課題と考えたい。
 最後になったが、われわれに、数多くの様々な提案や設計の機会を与え、支援してくださった方々に、心から感謝を申し上げたい。そして、これからも、誠心誠意、住まいと街づくりのために、精進し続けることをお約束する。同様に、研究所の仕事を支えてくれた多くのスタッフにも、感謝を表したい。あわせて、本書の出版を快く引き受けていただいた学芸出版社の京極迪宏社長と、献身的な編集作業を行っていただいた、前田裕資、中木保代の両氏をはじめとする編集スタッフの諸兄に、深く感謝します。

二〇〇三年一一月   藤本昌也