スクウォッター 建築×本×アート


書 評

『新建築』((株)新建築社) 2003. 8
 洋書販売にはじまり、翻訳、批評、教育、プロデュース、建築そのものなど多岐にわたる活動を精力的に展開し、昨年逝去された著者による批評集。書名のSQUAttERとは不法占拠者の意味で、このタイトルには氏の生き方の矜持、および建築界に見出した期待と可能性の意味が重なっているようだ。氏の人となりを知らずとも、海外の動向やアートについての背景を踏まえた解説と論考は刺激的で、読後には、その独特な文体と思考から、氏の姿が立ち昇って見えるかのようである。

(Y)

『新建築住宅特集』((株)新建築社) 2003. 10
「SQUAttER」とは?
 この本のタイトルである「SQUAttER(スクウォッター)」というのは、著者である大島哲蔵が名古屋と大阪で営んでいた本屋の名前である。本来、スクウォッターというのは不法占拠者のことで、特にアーティストたちが空きビルや空地を勝手に占拠し、そこをアトリエなどにして住み込んでしまった人びとのことをいう。たとえばベルリンのミッテ地区は、このスクウォッタリングからいつの間にかアートのメッカになっていった。スクウォッターは社会問題であり、同時に硬直した状況を撹拌するカンフルのような存在でもある。それは毒にも薬にもなる。
 大島哲蔵は、この時代のスクウォッターであった。その姿勢は本屋にだけではなく、彼の批評の仕方、社会との対峙の仕方、そして生き方まで、あらゆる場面に通奏低音として流れている。明日、自分はどこかに追い出されても仕方がないという不安定な状況、永遠に他者であるという感覚に少し苛立ちを感じながら、つい体制から離れてしまう。本人はもしかしたら定着への意志をもっていたのかもしれないのだが、でも結局は、不思議とそうなることはない。本能で定着を拒否しているのだ。だからかもしれない、大島の視線は業界の枠に囚われることなく、いつも自由でトリッキーだった。そして僕はこの姿勢にどこかで共感している。本誌の編集者が、なんとなく書評に僕を選んだ意図はこのあたりにあるように思う。
 この本のサブタイトルは「建築×本×アート」だが、大島はそれぞれの分野でスクウォッターならではの工作活動を続けてきた。従来の本屋とはかなり違った流通を、しかも名古屋につくり、建築分野では批評の執筆だけではなく、イベントプロデュースや書籍の出版、そして時には設計コンペにまで参画している。その姿を過去の文章や活動経緯から追いかけてみると、さまざまな場面で気炎を上げている氏の姿が捕捉できる。

大島哲蔵の論術と業績
 大島が批評の対象としているのもまた、大島の居場所と同じように中間領域にある人物や作品たちだった。たとえば、ドナルド・ジャッドやジェームス・タレルのように建築的なスケールと構造をもつ仕事群を緻密に観察し、建築がアートになる条件、アートが建築になる条件を探求し続けていた。その微妙な関係性を浮かび上がらせたことは、大島の最大のそして具体的な業績であったと、本を読みながら改めて思った。その両者の間を自由に行き来した視線が可能にした仕事であると思う。建築とアートの距離感が気になっているのであれば、この本を読むべきだろう。そこには多くの思考のきっかけが、隠された財宝のように、地雷のように、散りばめてある。
 大島の視点は直感的で根元的だ。彼の位置は危うく不確定であったかもしれないが、だからこそ獲得できた他者性、客観性を武器にキツイところをズバッと突いてくる。人がいいにくいことを切れ味よく、そして残酷にいい放った後に、精緻にそれを取り囲む状況を包囲していく、という論術をとる。さらに人物を中心に据えて、彼を取り巻く状況論から批評を展開していく。それが他の建築批評家にはない独特の表現となっている。大島の批評は、まるでその人物を知っていたかのような物言いで、そこには独特のリズムと生々しさと、そして毒気を含んでいる。ルイス・カーンもアドルフ・ロースも、彼の手によると、まるで横にいて見ていたかのような表現だ。それが妙なリアリティをもってドラマのように展開され、時に批評を読んでいるのかノンフィクション(もしくはフィクション)を読んでいるのか、その幻惑の中に引きずり込まれそうになる。それが大島の文章の作家性であった。

もし、生きていたとしたならば
 この本は、大島本人の意図によってつくられたものではなく、彼が亡くなった後、大島哲蔵アーカイブ(楠本菊實、嶋澤宏美、新田正樹、柳原照弘)によって、散在する過去の原稿を集めて編集されたものである。淡々とした静かな本になっているが、もし大島が生きていて、本人が編集にかかわったなら、内容もオブジェクトとしての形態も、こんなにすずしいものではなく、もっと毒気があり熱を帯びた(暑苦しい?)ものになっていたのではないだろうか。「これは、本人の意思を超えて固有なものだ」とあとがきで編者のひとりである新田正樹氏が述べているが、本人の情熱と編者の冷静のあいだに、この批評集はあり、その関係が心地よい。
 時代は、少なくともひとりは、大島のような人物を常に必要としている。『10+1』(No.29, 2002年、INAX出版)の大島哲蔵追悼号に寄稿している福田晴虔は、大島のことを「工作者」と読んでいる。他国にいつのまにかに入り込み、情報収集をしたり、戦略を幻惑したり、ときに爆弾を仕掛ける、あの工作者だ。アート界や建築界に批評的に言説を仕掛けてきたその手法は、変幻自在で今まで見えにくかった。とらえられてその全貌が明らかになる工作者の活動のように、大島哲蔵の仕事はこうして編集されることで再認識することができている。

(馬場正尊)

『建築文化』((株)彰国社) 2003. 12
 Like a rolling stone
 2002年6月に急逝した著者の1周忌を期に、残された有志の尽力によって刊行された遺稿集。すなわち彼自身その完成を見ることのなかった唯一の、いわば最初で最後の著作となったもので、死の直前までのおよそ5年間に建築雑誌等に掲載された、建築とアートを巡る論考が30編収められている。表題に掲げられた『スクウォッター』とは、彼が生業として営んでいた建築、美術関連の輸入書籍を扱う店の名前から取られているが、「不法占拠者」という語義そのものが、ビブリオファイル(愛書家)の顔とともに、翻訳家、批評家、そして教育者として、建築やアートの領域におけるジャンルの正統性や権威づけられたプロフェッショナリズムを、横断的に挑発し続けた生前の彼のユニークなありようをよく物語っている。
 一般にアカデミズムによる建築や美術の記述が、起源への遡行と系譜としての位置づけを指向するがゆえに、現時点でのアクチュアリティを取り逃し、逆説的な意味で可能世界を胚胎する周縁性を排除していくのに対して、彼は鋭敏な嗅覚と広範な配視によって、歴史の境界の外へと逸脱しながらも、いやそれゆえに潜勢態としてあるものをこつこつと拾い上げてきた。そのことはこの本に納められた諸論考はもとより、彼が訳者として成した仕事、『デ・アーキテクチュア 脱建築としての建築』(ジェイムス・ワインズ)、『圏外からの建築映画・写真・鏡・身体』(ダイアナ・アグレスト)、『不気味な建築』(アンソニー・ヴィドラー)、『ABC:国際構成主義の建築 1922-1939』(シーマ・イングバーマン)、『ドナルド・ジャッド―建築』(ドナルド・ジャッド)などに如実に反映されているだろう。
 本書のミニマリズムに対する論のなかで「意味は個人的である。それ(意味)にはいつも疑問符が、それへの異議申し立てが、そして解答への予期がある。つまりそこには(最小限の対話体として)常に2つの題目がある……私はこの疑問に対する解答を意味と呼ぶ」(「ミニマリズムとアーバニズム」)といったバフチンの一節が引かれているが、思うにこれは大島哲蔵自身の基本姿勢にほかならず、一方でタフーリの批評態度に対して「イデオロギーの急進性を維持しつつ徹底的な自己検証を加えるがごときタフーリ的方法は、明らかに悲劇的な結末を予感させずにはいない」(「批評者のテクスト―浅海に没した〈弁証法〉」)と語っているが、明らかにそこに自らの命運を見てとっていたに違いない。すなわちアドルノ的な否定弁証法に留まるか、さらに突き進み自己破壊をも厭わぬ止揚をめざすかというマルクスとマルクス主義との関係に由来するアポリアを、彼自身が抱え込んでいたのは疑いを得ない。少なくとも彼の態度はアドルノのような硬直したものではなく、むしろバフチンのような諧謔と解放への笑いが込められたものであったが、彼の記述では部分否定による境界線の再定義がなされるものの、拙速な全体化(=止揚、すなわち歴史化)は注意深く避けられている。そういった意味で彼は永久革命論者であったし、またそのテキストは他者に向かって開かれている。
 むしろ自己検証は、市井の中に潜伏するかのように生きながらも、書斎に閉じこもることなく、実際に社会の変動する現場に身を投じることによって試みられていたように見える。傍目にも徒労を感じさせ、見返りの望めぬものであったであろう、阪神大震災後の復興事業に対する市民運動に関与していったのも、また頭の動かし方、体の動かし方もおぼつかぬ、ひよっこたちを集めて、ささやかながらも遠大な勉強会(彼はそれにアウトクラス/outclass:「はるかに勝る」といった、それこそ尊大とも思える名を与えていた)を地道にオーガナイズしていたのも彼自身の実践倫理からの要請にほかなるまい。
 しかし「不法占拠者」の悲しい性として、いや必然として、その徒手空拳の素行は、ついぞ安住の地を見出せぬまま漂流し続けたようにも見える。晩年には緩慢な肉体的衰弱とは裏腹に、いよいよ切迫する時代や世界の全体化に批判意識を先鋭化することによってのみ抗いながら、たぶん予見していたであろう避け難い終息点の到来を前にして、焦燥感が漂っていたのも事実である。そのような彼を目の当たりにしながらも、未熟な私にはなすすべがなかった。
 個人的には私にとっての大島哲蔵の存在は、同郷同窓の兄のような存在であり、狭義なプロフェッショナルなコンテクストにおいてのみならず、深い見識をもった人間として、不確かな足取りで建築を模索していた私に、「それはちゃうで、米田君」といった口吻の、底知れぬ鋭利さと限りなき親愛さを合わせ持った態度で、建築家以前に創造者のあり方を指し示してくれた。私の彼から受けた恩恵は、計りしれない。いささか唐突な併置かもしれぬが、この近年ドゥルーズが、ドゥボールが相次いで逝き、そしてとうとう大島哲蔵が逝ったことは、少なくとも私にとっては律動する批判精神の大きなうねりが潰えたことを寂寥感とともに、しみじみ実感させるものとなった。せめてもう一度自らの稚拙な成果に対する、彼の生きた批判の言葉を聞き取りたかった。
 しかし何かの終わりは、何かの始まりでもある。そしてそれを自覚的に担うことは、彼が身を呈して散種した言説を、幸運にも遺産として託された私たちの義務であり可能性であろう。Let's rock!

(建築家・アーキテクトン/米田明)