オランダの持続可能な国土・都市づくり


あとがき

 日本の公共事業のあり方をめぐり、ほのかに見えてきた希望について記しておきたい。それは近畿圏淀川水系の河川整備計画策定の過程で国交省と学識経験者との間で繰り広げられた激しい論争の中で現れた一つの兆候である。
 国土交通省近畿整備局(以下、整備局)は2001年2月、淀川水系にある大戸川(滋賀県大津市)、川上(三重県伊賀市)、丹生(滋賀県余呉町)、天ヶ瀬(京都府宇治市)、余野川(大阪府箕面市)の5つのダムを含めた河川整備計画の策定にあたって、学識経験者の意見を聴くための諮問機関として「淀川水系流域委員会」(以下流域委)を設置した。
 先の1988年着工、1995年に運用開始された岐阜県長良川河口堰問題で、住民と世論の厳しい批判をあびた旧建設省(現在の国交省)は、1997年に河川法を改正した。そして河川整備計画策定にあたって、住民参加を保証し、住民との対話を重視する姿勢を明確にした。国交省にとっては、まさに180度の方針転換であった。流域委はこのような主旨に基づいた河川行政の新しいモデルケースとしてスタートしたのである。こうした役割を担った流域委は、委員の人選や会議の運営に自主性を貫いた。会議は、外部組織の「委員候補推薦委員会」が選定した一般公募の住民と専門家委員によって、学際的見地から検討作業が始められた。


 流域委は検討を進めるにあたって、河川管理者(整備局)の計画原案提示以前の段階からみんなで議論し、流域委の提言に基づいて河川管理者に計画原案を作成させるという「従来にない審議プロセス」を採用するとともに、会議や資料・議事録等を一般公開する「情報公開と透明性の確保」に徹し、関係者からの「幅広い意見の聴取」を行い、傍聴者発言も許し、流域委自らが審議会の進め方、内容を決定する「自主的な委員会運営」に徹した。従来の官僚主導で閉鎖的な審議方法に比べ極めてオープンなこの方式は、「淀川方式」と名付けられ、後ほど公共事業における意思決定方法のモデルとなった。
 この方式を国交省も大筋で許容し、流域委も河川管理者に対応しうるガバナンスを発揮した。ここで重要な役割を果たしたのが、流域委立ち上げ期の国交省の担当者であり、退職後は委員の一般公募で選任され、4代目委員長に就任した元国交省職員の 宮本博司氏であった。宮本氏は旧建設省時代、反対住民と対峙した苦い経験からダム路線を突っ走る国の方針に疑問を抱き、一市民となった後は、日本の公共事業のあり方を転換させるほどの開かれた意思決定システムの確立をめざし、流域委の活動において優れたリーダーシップを発揮した。


 このような経過を経て発足した流域委は、発足以来7年間に約600回にわたる審議を重ね、その見解は次第にダム建設に批判的なものとなっていった。しかし、流域委に自主性を委ねたはずの国交省は、この動きに難色を示し始め、両者の考え方の基本的な違いが、次第に鮮明となってきた。
 整備局は洪水をダムと堤防内に封じ込めようとするのに対し、流域委は「どんな洪水が来ても、大きな被害に繋がる破堤を防ぐためにまず堤防強化を」「これからの治水は、川の内側だけでなく外側でも対応できる『流域治水』が必要である。あふれることを想定し、それに備えることが大切」と主張した。整備局が“剛”の「ダム治水型」とすれば、流域委は“柔”の「流域治水型」といえるだろう。ヨーロッパの氾濫水域や河川再自然化に近い流域治水の考え方は、まさに持続可能な河川管理法であるといえる。


 このようなやり取りを繰り返した後、2008年4月、流域委が(国が凍結を決定した余野川ダムを除く)「4ダムの建設は不適切」とする考え方をまとめた。これに反発した整備局は2008年6月、ダム建設を盛り込んだ河川整備計画案を発表し、流域委の見解を無視する「見切り発車」をしてしまった。そして国交省は2009年8月、8年間にわたる流域委の活動を中止させた。ダム建設への国民の厳しい批判を受けたことを契機に、河川法を改正してまで新しい方向をまざしたはずの流域委を、“生みの親”である国交省自らが踏み潰してしまったのである。多数の流域委委員やダム行政に批判的な人びとは、あと一歩のところで日本では未曾有な合意形成の一形態が形成されたのにと、急転した事態に憤慨した。
 しかし、流域委の努力は(一部ではあるが)報われることになった。河川法に基づき意見を求められた大阪、京都、滋賀、三重の地元四府県知事が結束して大戸川ダム計画についてのみ反対の姿勢を共同で表明したのである。ただし国交省は以前に「大戸川ダムは凍結」と発表していたが、整備計画では「大戸川ダムを整備する」と記述しており、ダムを凍結するのか、あるいは継続していくのか、きわめて曖昧な態度をとっている。


 流域委がめざしたものは、1992年リオ会議のメインテーマであった持続可能な開発のあり方を追求する先駆的取り組みであった。概略的には9章で述べたヘルダースバレ地域での環境再生計画策定過程と類似する日本版を目指したものであったといえる。バレ委員会は意思決定権を持つステークホルダーによって構成されていたのに、流域委はそれを持たない審議会ではあったが、会議の運営等の住民参加方式にはかって見られぬ革新的なものがあった。すなわち宮本氏という優れたコーディネーターのもとで、住民参加による民主的な意思決定方式の創造をめざした取組みは、 刮目すべき今日的な意義があったといえる。
 流域委は既述のように、長良川河口堰建設に反対する強力な住民運動の成果によって案出されたものであった。それが諫早湾河口堰建設や川辺川ダム建設の反対運動へと全国的に“脱ダム”の世論を広げていった。波紋はさらに広がり、2008年6月佐賀地裁が諫早湾河口堰の常時開門を国に命じる判決を下した。また熊本県相良村に建設予定の川辺川ダム建設に対しても、2008年9月知事が反対を表明した。この流れが近畿4府県知事の大戸川ダム計画反対の意思表示にも繋がった。つづいて<RUBY CHAR="八ツ場","やんば">ダム(群馬県)も廃止に向かっている。今後これら一連の動きが相補強し合って、脱ダムの大きなうねりへと発展していく可能性を秘めている。その意味で流域委の果した役割は、今後日本の公共事業における意思決定方法のモデルとして歴史的な意義を持つこととなるだろう。


 本書で紹介したさまざまなオランダの事例は、その一つひとつが日本が学ぶべき教訓と示唆に富んだものである。しかし歴史も文化も異なる外国文化の直輸入はそう簡単に根づくものではない。合意形成やプランニング制度などの社会制度についてはとりわけそうである。しかし流域委の実践は、オランダで見られるような優れた意思決定方式の萌芽を示すものであっただけに、日本の公共事業の未来にかすかな曙光を見出しうる画期的な出来事であったといえる。

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 本書は、2003年3月神戸大学大学院自然科学研究科から博士(工学)号を授与された論文「オランダの空間計画の特質に関する研究」を基礎にしつつ、いくつかの章を書き加え、かつ論述シナリオの流れを整え、専門用語の解説や図版を追加し、現代の世界と日本にとっての意義などに工夫をこらした専門図書・啓発図書として新たに編成したものである。そしてわが国において、オランダの国土・都市づくりを総合的に著した初めての書であると自負している。

 本書の出版に至るまで筆者は、オランダ研究との関わりの中で4度にわたる“チャンス”に恵まれた。
 1つ目は、1965年大阪府派遣の海外研修生としてオランダ・ハーグにある社会科学研究所(Institute of Social Studies、ISS)総合計画コースに約半年間留学したことである。社会科学研究所は当時としては珍しい開発学(Development studies)を専門とする社会科学系の教育・研究機関で、本コースの指導教官であったJ. タイセイ教授は1960年と62年の2回にわったって国連阪神都市圏調査団の一員として来日したことのある知日派の学者であった。筆者はタイセイ教授の授業を通してオランダにおいて干拓と治水を通じて計画学が確立され、本書で全面展開した空間計画における優れたパーフォーマンスが達成されたことや、プランニングにおける学際的なアプローチの重要性を学ぶことができた。社会科学研究所に学び、温厚かつ誠実で学識豊かなタイセイ教授の教えを受けたことが、筆者の人生とオランダ研究を決定付ける貴重な経験となった。
 2つ目は、還暦も過ぎて人生の先が見えてきた <RUBY CHAR="齢","よわい">64の1998年、一念発起してISSの修士(MA)課程へ再留学したことである。33年ぶりのISSでは約2年間「地方・地域圏プランニング・コース」において開発学を学んだ。ISSは地球環境問題、南北格差問題、貧困問題、ジェンダーなどグローバルな喫緊の課題に果敢に取り組む国際的な大学院大学に発展していた。指導教官のR・ヘルムスング教授から、社会進歩の基本となる「開発」は単に空間計画のみに留まらず、社会学、経済学、統計学、ジェンダーなど多様な学問領域の統合によって達成されること、そのプロセス・プランニングの手法として5章で述べたオランダの空間計画制度や実際のプランニングにおいて採用されるSWOT分析やステークホルダー分析の手法、ならびに戦略的計画において盛り込まれる開発ビジョンや開発戦略の手法について深く学ぶことができた。
 3つ目は、2000年神戸大学大学院自然科学科の塩崎賢明教授のもとで博士論文の作成に取りかかったことであり、その過程で塩崎先生から適切な指導を受けることができた。ここでも若い学生に混じって楽しく充実した3年間を過ごすことができた。
 4つ目は、学位取得後これまでのオランダ研究の蓄積を一冊の著作にまとめておくべきだと考え、内容の追加取材と新しい情報収集のため、2007年、ロッテルダムにあるエラスムス大学住宅都市開発研究所(Institute for Housing and Urban Studies、 IHS)都市創造総合戦略の管理職クラス対象コース(Executive Course)に短期留学したことである。住宅都市開発研究所ではオランダのプランナーたちが挑戦する最新の都市戦略について集中的に学習し、主任教授のF.ダビッドソン教授からアムステルダムの都市政策や国土政策、持家化社会に向けた住宅政策の急速な転換などについて多くの情報を入手し、本書に反映させることができた。

 博士論文から本書執筆までに必要なすべての学問的知見を教授していただいた社会科学研究所の故J. タイセイ先生やR・ヘルムスング先生、神戸大学の塩崎賢明先生、住宅都市開発研究所のF. ダビッドソン先生など多くの先生方の学恩に対して心よりお礼を申し上げたい。
 出版にあたっては、最初の社会科学研究所留学時に同窓生であった畏友の三村浩史氏(当時京都大学助教授、現名誉教授)から詳細にわたる指導と助言を賜った。三村先生は敬愛してやまない学兄だが、今回の出版については我がことのように親身になって内容の練り上げや編集方針などに骨身を惜しまぬ協力をいただいた。
 その三村氏とともに、学芸出版社の前田裕資氏にもつねに適格な指摘と助言をいただいた。本書の完成に至るまでは、事実上「三村・前田・角橋」のトロイカ体制で作業を進めたといってよいくらいであった。また編集と組版の段階では編集者の三原紀代美氏(DEVICE DEVEL'OP)に大変お世話になった。
 本原稿を執筆する段階で、人生のパートナーであり編集者の経歴を持つ角橋佐智子氏には素稿の段階から、文章の筋が通っているか、専門語を出来るだけ少なくし読んでわかりやすいか、などに絞って綿密に原稿を点検してもらった。三村浩史、前田裕資、三原紀代美、角橋佐智子各氏の協力がなければ本書は陽の目を見ることがなかったであろう。ここに心を込めて感謝の意を表したい。

2009年10月
角橋 徹也