ふりかえってみれば、第1号を「西須磨住民だより」として発行したのは、震災から15日目の2月1日だった。印刷機は跳びはね、用紙が散乱する中で、4千枚を印刷した。「この非常時に、集会なんか……という声もおありでしょうが、こんな困難な時期ならばこそ、個々バラバラに悩むのではなく、同じ問題を抱える被災者が集まり、話し合い、どうすればよいかを考えましょう」「「эそこには、こんなよびかけがなされている。
配布の人もいない、10名たらずのものが手分けをし、避難所や傾いたポストに配って回ったのを思い出す。
95年5月から「にしすま・まちづくり」と改称し、7千部から8千部と印刷枚数が増えるに従って、配布体制が問題となった。自治会の組織を通じ配布できるのは1/3余り。5千近くの新聞を約20名の人の協力で、一軒一軒配らなければならなかった。
一人で六百もの配布を引き受けざるを得ず、急いでポストの入り口の金具で指をはさみ、出血のため新聞をよごしたことも何度かあった。
総計13万部の新聞が、地域に人々にどれだけ浸透したかについては、明確な判断の資料は持っていない。
95年夏の神戸市長への要請署名のために街頭に立った際の住民の反応や、96年夏頃にしばらく新聞が途切れた時に、幾人もの人から「この頃入らないけど、どうなってるの」という声がかかったことなどで、地域のミニコミ紙として、それなりの認知を受けているのを感じたりした。
新聞発行は、読み手の問題だけでなく、発行する側の「西須磨まち懇」メンバーの大切な支えでもあった。
負担の多い新聞作成、配布が、運動の停滞を乗り越えさせてくれたり、見失いかけた運動の展開ベクトルを合わせてくれたことも幾度かあった。
97年に入り、新聞発行のサイクルも復調し、私達の運動の記録「“住民主体”への挑戦―被災地須磨のまちづくり」(A5・200頁)の刊行のメドがつく中で、広報部の拡充整備が改めて重要な課題となってきている。
「継続は力なり」を合い言葉に、これからも歩みたいと思う。