ライフコースの変化に政策はどう向きあうか


はじめに


 第4巻は、「人と政策」という企画から出発し、「人の生き方と政策との関係」や「人生行路で直面する政策課題」を論じることとして、「ライフコースの変化に政策はどう向きあうか」というタイトルにした。ほんの少し前まで人生行路は、人々が踏み固める共通の道筋としてイメージされ、繰り返されるライフサイクルと表現された。ところが今日では、人生行路がしばしば綱渡りに譬たとえられ、教育や雇用や社会保障の政策も綱渡りの命綱と位置づけられる。綱から転落した際のセーフティ・ネットも、綱渡りの譬えと対で使われるのである。

 ライフコースは、このような状況を少なからず反映した言葉でもある。それぞれの人生行路で、これまでにないリスクに直面するからである。一方でライフコースは、個人の多様な選択の可能性を意味する言葉である。さまざまな生き方を選べるようになったことは、20世紀のかけがえのない贈物である。

 生き方の選択幅が広がったことと、ライフコースで直面するリスクは無関係ではない。選択された生き方が、たとえば個人化や少子化のように、新たなリスクや課題をもたらすからである。こうして生き方とリスクを調整する政策は、私たちの日常生活に幅広く、深くかかわることになる。本巻では、人と政策のすべては扱えないが、生き方が多様化し、ライフコースが変化することでもたらされる主な政策課題を論じる。以下、各章の紹介をかねて、本巻の流れと意図を示したい。

 まず第1章「生き方の多様化と性別役割分担」では、現代の若者が多様な生き方の選択に戸惑っている状況が分析される。戸惑いの原因は、「夫は外で働き、妻は家庭を守るべきである」という伝統的な性別役割の分担意識がなお強く残っていることであり、この傾向は、東日本大震災以後むしろ強まっていることが明らかにされる。さらに、性別役割分担の残存が、結婚の便益を小さくして、晩婚化や未婚化をもたらしている事情も説明される。分担意識による男女の不平等を解消するために、二つの政策が提言される。一つは、ポジティブ・アクションの義務化を含む男女均等化政策、二つは、正規雇用における労働時間短縮や保育所の充実などの仕事と家庭の両立支援政策である。

 つづく第2章「ポスト工業化社会の働き方」は、特定の時間に特定の場所で目に見える形で働いていた工業化社会の働き方が、歴史的ともいうべき変化をとげていること、働き方の変化の影響は、組織や政策のあり方にまで及ぶことを明らかにする。すなわちIT化、グローバル化、ソフト化の急速な進行は、仕事の内容を変貌させ、求められる能力もパターン化できない「知恵」にシフトさせる。マネジメントは個々人の適応能力を重視するようになり、大学教育も新たな対応に迫られるという。こうして雇用労働と独立自営との垣根があいまいとなり、両者の区別を前提としていたこれまでの労働法制や政策は、働き方の実態に合わなくなり、根本的な見直しを迫られると指摘する。

 第3章では「家族であることと政策のかかわりを考える」。家族の形が核家族化をとおりこして単独世帯化しつつある状況を踏まえて、雇用労働と核家族の結合を生活モデルとしてきた従来の社会政策が、深刻な課題に直面し、方向転換する様子が分析される。雇用労働については前の二つの章でみたが、家族についても、養育や介護の家族ケアが、雇用労働と齟齬をきたして家族関係に緊張をもたらし、虐待や家庭内暴力などの家族であるがゆえの問題が顕著になるからである。今後も生き方の選択肢として家族が失われないとすれば、家族の支援政策は、固い集団としての家族の強化ではなく、開かれた家族の関係を選択できる生活条件の整備に傾注すべきことが展望される。

 つづく二つの章では、子どもや若者の生活環境にかかわるいじめと体罰をとりあげる。

 まず第4章「いじめや体罰にどう向き合うか」では、市民社会から隔離された「学校」でのいじめと体罰が、子どもの人権という視点から論じられる。いじめと体罰の定義が法的にも運用上もあいまいで、加害者の法的責任にも不整合が生じ、学校空間の特殊性ともあいまって、いじめや体罰が繰り返される背景が説明される。そして、いじめと体罰の最大の原因が、被害者の「人としての尊厳を否定する行為」であることの認識の欠如、子どもの人権保障についての意識の希薄さに求められる。したがって、いじめや体罰をなくすためには、効果的な仕組みや対策を講じるとともに、何よりも学校関係者の意識変革を迫るような政策が必要であると強調される。

 つぎの第5章「スポーツにおける体罰問題」は、教員や指導者による体罰と「愛のムチ」の線引き問題を、スポーツにおける自主自律の関係性から論じる。教育上の懲戒と体罰禁止の区別は紆余曲折を経てきたが、2013年から文科省は学校での体罰、スポーツでの暴力、双方の根絶に大きく舵を切ったと指摘される。一方家庭では、しつけと虐待の間に位置する「愛のムチ(体罰)」が慣習的に容認されてきたが、このことが学校を含むスポーツ指導での体罰の境界線をあいまいにしている。当事者が納得できる解決には、スポーツの自主自律の関係において体罰規制を実践しつつ、「愛のムチ」についての開かれた議論にもとづく合意形成が求められる、と主張される。

 現在20歳の読者が65歳になる2060年には、高齢者人口の割合は約40%になると推計されているが、以下の二つの章では、高齢者の生活にかかわる政策をとりあげる。

 まず第6章「年金制度への不安・不満をどう考えるか」では、近年の公的年金制度をめぐる報道等が年金離れすら招いている現状を踏まえて、年金制度への不安や不満がもっともなものかどうかを、正確な事実認識と制度理解によって解き明かされる。財政破綻の不安に対しては、現状は年金積立金の保有状況からも安定していること、長期的に財政均衡を図りつつ当面は定期的な財政検証によって持続可能を目指す仕組みであることが示される。世代間の損得の不満に対しては、先行世代ほど恵まれているが将来の受給額は拠出額を大幅に上回ると説明される。最後に、各世代の経済、生活環境の違いをたがいに理解する努力と、高齢期の所得保障に欠かせない公的年金制度を持続させるための真摯な政策論議に期待が寄せられる。

 つぎの第7章「誰が介護を担うのか」は、介護保険制度の実施状況を把握した二つの訪問介護サービス事業所調査にもとづいて、介護サービス市場の現況を明らかにし、今後の介護のあり方を展望する。調査の結果、訪問介護の事業所は公益法人よりも民間企業の伸びが著しいが、民間企業が中心の東京では公益法人を含め経営状況が悪化していること、民間企業は、非営利法人の優遇制度が公平な競争の阻害要因と感じていることなどが示される。そもそも施設介護への参入が困難な民間企業は、訪問介護に勢いよく参入したものの介護報酬の壁に直面しており、介護の社会化がなお道半ばの現在、介護保険制度が民間企業の力をどう引き出せるかが、重要な課題であると指摘される。

 最後の第8章「政策学を学ぶねらい」は、本シリーズの終章としての役割も担う。本章では、政策と人とのかかわりを、誰の問題か、誰が解決するか、誰にとっての政策効果かの3点に還元し関連づけて、政策学のむずかしさと楽しさが伝えられる。誰の問題かは、政策が作用する現場で、誰のどのような問題かと考えたとたん、「誰」は一気に複雑な様相を帯びる。どのように解決、どのような政策効果という現場の問いを重ねると、「誰」は重層化し、多元化して一層複雑になる。具体的な政策課題や政策評価の例示は、本文にゆずるしかないが、政策学は、政策策定の上流からスマートに流れこむものではなく、下流の現場である日常生活に深くかかわり、そこから組み立てられる学問であることが示唆される。本章は、感受性豊かな若い人たちに向けての、政策学への招待状でもある。

 以上、本巻全8章のつたない紹介であるが、興味をもった順に、ぜひ各章の本文に触れて、生き方と政策のかかわりの現在を直に感じていただければ、執筆者一同、これに尽きる喜びはない。

第4巻編者 中川 清