地域の自立は本当に可能か


はじめに


 私たちは日常的に「自立する」と言った場合に、他者との関係を一切持たず、すべてのことを自分自身で解決しなければならない、とは考えないであろう。無人島で外部との交流もなくひとりで生活ができるならともかく、社会が形成されているかぎり、私たちは他者との関係を抜きに生活することは無理である。「これからは自分の力で生きるのだ」と息巻いてみたところで、現実の社会では、そんなことは不可能であり、自立への自覚が足りないと見られるであろう。

 「自立」とは、他者があって成り立つものである。そこで、私たちは他者に対していかに責任を負うているかが問われることになるし、ここに同時に主体性や自律性が課題にもなる。

 この他者への責任の視点は重要であるが、間違うと他者への依存心が高まったり、形式的かつ一方的に他者を責めることになりかねない。したがって、多様な特性を持った人々が共に支え合いながら共存するがゆえに、社会が成り立っていることを絶えず前提に、社会のあり方や個々人の責任を考える必要がある。たとえば、そのための典型的な制度として、税の仕組みがある。税金は納税者が見返りを期待して納める制度ではない。多様な特質やもった人々が共存していくために、あるいは社会のひずみのなかで弱者の立場に置かれた人々が幸せに生きていけるように、税は再配分の仕組みを大前提としている。したがって、個々人の尊厳を前提に人権を保障していけるように、社会や制度をどのように構築していくべきであるかは、絶えず私たちに課せられた使命である。また、各地域で生活する人々の生活を保障するために、一定の行政サービスが等しく受けられるように地方交付税の仕組みが導入されてきた。

 各地域によって、多様な特性がある。地理、自然環境、歴史、文化、人口等、すべての地域が異なった特性を有している。人口が多いほうが優れているわけではないし、「豊かさ」の基準もそれぞれの地域で多彩である。こうした多彩な各地域は、人々の多様な営みによって成り立っているのである。したがって、私たちは違いを尊重することが求められているはずである。

 一方では、様々な地域が共存して、広域的な地域が形成されている。たとえば、流域を考えれば分かりやすいであろう。上流域と下流域が共通認識をもたないかぎり、河川環境は改善されない。そうであれば、下流域は上流域が自然環境を保全する恩恵を受けるわけであるから、そのためには下流域も上流域と同様に自然環境保全の責任があることになる。

 このように考えてくると、概念的に理解ができても、何らかの責任を前提として、本当に人の自立は可能か、地域の自立は可能か、とういう問いにはまだまだ多くの疑問が残る。

●自由度が拡大するのは辛いこと?
 私たちは、生活が安定しているのであれば、誰かにコントロールされていたほうが、自分で考え行動する範囲も狭く楽である。もし、自由度が増していけば、自己責任で判断し、選択していく機会が拡大していくことになる。このことは、一面では辛いことである。

 我が国では2000年4月に地方分権一括法(地方分権の推進を図るための関係法律の整備等に関する法律)が整備され、分権社会に向けて本格的に始動した。中央集権の時代には、高度成長を体験し、一定の経済的な豊かさを実現した。1970年代中頃の筆者の大学生時代には、携帯電話を所持する学生は皆無であったし、アパートや下宿でも共同の炊事場やトイレが一般的であった。また、お風呂は銭湯通いであり、居酒屋に飲みに行くことはめったになく、誰かの下宿で一升瓶を囲んで語り合うという風景が良く見られた。それでも、当時は不便さを感じることはなかったし、高度成長を享受した「幸せな時代」であった。その後も中央集権体制は経済的な成長と、安定した生活をもたらしたのではあるが、一面では公害によって人間に害を及ぼすことになったし、「開発か保全か」で揺れる地域も登場し、独自の道を探り出す地域も出てきた。こうして、1980年代に入るとシビル・ミニマムの量から質への転換を求めるようになっていった。自治体は中央政府に対しては自立したローカル・ガバメント(地方政府、もしくは自治体政府)の形成を期待し、その個々の地域においてはローカル・ガバナンス(地域協治)のあり方を問うようになった。

 このような経過を経て、今世紀に入り地方分権化は、多くの課題を残しながらも、それなりに進行していった。また、当時の政府は、平成の市町村合併(1999年〜2010年)によって、地方分権の受け皿としての自治行政基盤の確立を期待した。ところが、実態は合併自治体の周辺部の衰退、全国的にも過疎過密化あるいは2極化に歯止めをかけることができず、解決への道のりは依然として遠い状況にある。また、人口減少、少子高齢化、財政難等が各地域の自立化を阻んでいる。さらには、自治体だけでは対応できない国の各種産業政策、国際貿易政策等の影響も大きい。

 地方分権の進行によって、自治体の自由度は拡大したものの、自治体や地域だけの努力では解決できない多くの問題に直面している。自由度の拡大により国の庇護のもとであぐらをかくことは許されなくなるが、逆に見れば、自治体や地域が知恵を出し、創意工夫していけば、新たな展開が可能になるということでもある。したがって、各地域が経済性だけではなく、別の豊かさを図る価値基準を探りつつ、それぞれの地域や自治体が一定の自立を目指して、自律化への胎動が起こりつつあるところである。

●地域の自立のための提唱
 そこで、第3巻では、「地域の自立は本当に可能か」をテーマに、地域文化、地域経営、住民自治、協働、市民社会形成、自治体政府等の観点から、地域が自立するとはどういうことであるのか、それは実現可能であるのかについて、以下の六つの章から考察を加え、これからの地域のあり方を展望する。

 まず第1章と第2章では、地域の自立を考えるための大前提として、社会をどのように考察し、どのような変革への視点を持つべきかについて提唱する。
 第1章では、人類の歴史は、自らの社会を改善していこうとするソーシャル・イノベーションの連続であったとする認識にたち、人間の尊厳を前提として、それまでにはない新たな方法で社会を良くしていくための思考様式や取り組み事例を提供する。
 地域で戦略的にイノベーションを起こすために、第2章では、ソーシャル・キャピタルの蓄積から地域のネットワーク形成へ、そしてそのネットワーク内のダイバーシティの確保について、具体的な条件を明らかにしている。

 続く第3章、第4章では、マーケティングと文化政策の領域から、ソーシャル・イノベーションを実現しようとするものである。第3章では、従来のマーケティング手法は新たな地域活性化を考える時には使えないとし、地域のミッションやビジョンの価値に着目した価値主導型マーケティングを打ち出している。
 第4章では、公共政策として文化政策への認識の必要性を説き、そのためには自律性の獲得が重要であり、自律的観光を目指すためには、観光による内発的教育が必要であると説く。
 ところで、地域の自立を目指して活動する各主体に着眼すれば、団体や個人の相互関係にについて、どのようにシステムを形成すべきかについても考察が必要となる。

 第5章では、地域社会の持続可能性のための地域の自立を展望するとともに、とりわけ地域と大学との協働型まちづくりのための同志社の先駆的実践について、その可能性を分析する。
 地域の自立といった場合には、コミュニティやNPO等の団体を前提とすることが多いが、第6章では改めて個人に着目し、個人から改善・改革を導く民主主義に基づく補完的システムのあり方に言及している。

 以上が第3巻の構成である。本書の思いが多くの地域に伝わることを切に願っているところである。

第3巻編者 今川 晃