■ 第4 回  CIAM遺産の今

これまで、新市街と旧市街についてみてきたので、今回は第三の地区、郊外地を見ることにしよう。

ここでいう郊外地とは、伝統的なモロッコ人都市住民の住む旧市街、フランス人植民者達のために建設された新市街に対して、モロッコ人だけれども、地方の山村部や砂漠などから都市へと流入してきた人たち−いわゆる離村農民−のための居住地として、設計されたものである。彼らが都市へと流入した理由は様々だが、一言でいえば貧しさのためである。農耕や遊牧によって豊かであったはずのモロッコの地方生活が破綻した背景には、フランス人による農地の収奪や農業の近代化があったと言われている。その意味では、郊外地もまた植民地化をきっかけに形成された地区だといえるわけだ。

この郊外地のポイントは、離村農民といえども「モロッコ人」を居住者として想定し、その生活様式に対応した住宅なり都市空間なりを作り上げようとしたことであった。計画を担当したのはフランス人建築家達である。この時代のフランス人だからといって、何も全て新市街のような、つまりパリのような都市空間ばかりが理想とされていたわけではない。なかでもアルベール・ラプラドは、モロッコ人を住まわせるという郊外地計画の趣旨を良く理解した上で、自分自身としても「我々は時という時を、探索し、デッサンし、実測して過ごした」と書き付けるほど旧市街の魅力に惚れ込んだ人である。そうしたデザイン・サーベイに基づきながら、旧市街的な空間を再現しようと試みたのであった。

そうして出来たのが、モロッコ最初の郊外地となるカサブランカの「ヌーベル・メディナ」であった。「新しい旧市街」という意味の地区である。カサブランカの場合、港に面した小さな旧市街を巨大な新市街が囲んでいたのだが、ヌーベル・メディナはその新市街の更に外殻に計画された。

 図1:プロストの計画図

  図2: ヌーベル・メディナ部分拡大図

その空間の内容は、モスクがあり、フンドゥク(隊商宿)があり、沿道はスーク(市場)が設けられているといった形で、いわゆる「イスラーム都市」のお約束の施設が全て揃っている。少し奥に進めば、一転して静かな袋小路が不規則に配置され、落ち着いた雰囲気の住宅街となっている。そう、前回見た旧市街の街路の形成のルール、「公私の分離」が再現されているのだ。もちろん、そこは近代の都市計画であるから、自動車も交通可能な道路が中心を通り、ラクダやロバと軽トラックも共に活用されている。

図3:ラプラドによる詳細計画図


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図4:ヌーベル・メディナ。中心軸が道路とされ、奥まったところに住宅と路地が配置されている。

再現されているのは物的空間だけではない。旧市街の持続の仕組みであるハブス(正則アラビア語でワクフ)もまた簡略化されながら再現されているのだ。ハブスとは、モスクやマドラサ(神学校)などの公的施設を、周辺住民の寄付などによって運営していく、イスラームに基づく非営利の施設運営の方法だ。このハブスに因み、ヌーベル・メディナの中心街区は「カルティエ・ハブス」と呼ばれている。住宅や店舗からあがる賃貸料の数%がハブス省に寄付されるという決まりが設けられていたのである。


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図5:モスクと公園が一体的に計画・実現されている。

このように、郊外地とは、「公私の分離」に基づく生活様式を都市の物的空間において再現するとともに、モロッコ都市のソフト面、伝統的な持続の仕組みまで取り込んで、いわばソフト面までも再現するという、「モロッコの近代都市」を彼らなりに見据えた都市デザインの成果だったといえよう。

さて、時代は下り、保護領末期の1940年代になると、離村農民の都市流入は一層激しくなり、各都市で旧市街の過密化と、ビドンヴィル(スラム)の形成が進んだ。そうした中、都市問題の解決に当たったのは、考古学者出身ながら、CIAMとも深い関係を持っていたフランス人、ミシェル・エコシャールであった。彼はボディアンスキーやキャンディリスらとともにCIAMモロッコを立ち上げると、「大衆のための都市計画」を標榜した。それはより多く、より安価に、郊外地を建設していくことだったのである。

図6:CIAMモロッコによるキャリエール・セントラル計画図

中庭を囲む平屋建て四戸で1棟、4棟が連担して1ユニットとなる、集合住宅トラム・エコシャールが開発された。ラプラドの計画にもあった郊外地住宅をぐっと単純化し、ほとんど自動的に大量供給していくことのできるシステムである。小さな袋小路や他家のそれと正面しない扉、高い窓といったルールは一応継承されたものの、旧市街の代名詞ともいうべき見えがかりのある曲がりくねった街路は、全て直線の道路となるなど、初期の郊外地に比べれば随分物足りない内容となっていった。

図7:完成当初のキャリエール・セントラル

一方、旧市街だけでなく、オアシス地帯の城砦カスバに範を得たアパルトマン「近代カスバ」もボディアンスキーらによって建設された。ここで注目されるのは、平屋建てでは中庭がオープンスペースであったのに対して、大きなバルコニーが「近代カスバ」において中庭的役割を果たすとされた点である。

図8:近代カスバの代表作「ミツバチの巣」建設当初


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図9:キャリエールセントラルの街並み

こうしたCIAMモロッコの郊外地は、施設そのものも、また施設と一体化した住宅や街路の計画も十分でなく、いわば均質で無味乾燥な空間であった。それが機能性重視のCIAMらしさだった、ということは出来るだろう。しかし、住民増加が更に激しさを増していった結果、事態は異様な方向に進む。離村者であった住民達が、それぞれの出身地の様式に基づいて、自らモスクを建設したり、住居そのものを増やすため、平屋建ての中庭住宅に上階を増築し始めたのである。増築は3階から4階建てにまで及び、奇しくも旧市街の住宅と同じくらいの高さに達した。しかし、増築の過程で、せっかくの中庭が居室として屋根をかけられてしまったり、バルコニーがブロックで塞がれてしまう、ということも多くおこった。

たとえばカサラブンカにおける現状は以下のようである。モスクはトラムの住宅を転用、増築されて作られているのだ。これは国でも富豪でも企業でもない、全くもって住民自らが作った施設である。

図10:トラムを改修したモスク

図11:ミツバチの巣現況。バルコニーは居室化されている。

もちろん、本書の主題都市、フェスにおいても同様な増改築が進展した。エコシャールが本格的に着手する前に退任してしまったこともあって、フェスの郊外地アイン・カードゥースにおいてはモスクなどの施設で計画的に実現されたものはゼロであった。つまり、いずれも市街地の計画後に、実際に住民が住むようになってから、その寄付と共同施工によって作られていったのである。

図12:モスクを中心にハンマム(公共浴場)やパン工房など伝統的施設が建設されている。西側にCIAMモロッコによるアパルトマンが見える。


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図13:増築された上階は3、4階に及ぶ。

図14:袋小路は上階が増築されたことで、より本物(旧市街?)らしくなっている。

こうした都市空間が、実際どうやって出来、どう成り立っているのか、詳しくは本書を参照していただきたい。しかし、増改築が今なお生きている都市であることの、一つの例であることは、伝わったのではないだろうか。

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