1995年1月の阪神・淡路大震災の直後に、慶応義塾大学『三田評論95年5月号』において、「災害に対する理性と感情」と題し、大災害の混乱に際しても周囲の感情に流されることなく理性的な判断ができるようにしたいという趣旨の論考を書いた。その考えは今も変わっていないし、本書の基本的な思想と相通じているので、ここに再掲してあとがきに代えたい。
阪神大震災は様々な悲劇を演出した未曾有の物理的衝撃であり、同時に、政治、経済、社会システムに対しても大きな影響を与えた災害であるが、今日に至るまで国中の関心を集めたこの出来事がいつまで国民的関心事であり続けられるのかを考えるとき、いささか不安な感じも無いではない。江戸や明治の大火、関東大震災、空襲火災を経験している東京においても、数万人の人が亡くなる事態に直面したとき、二度とこのようなことが起こってはならないと堅い決意を固めたはずであるが、現在我々が暮らしている東京の都市環境は安全な都市と言うにはほど遠い状況である。東京都防災会議の被害想定によれば、控えめに見積もった震度6の地震でも、多くの家屋が倒壊し、30%近くの市街地が火災により焼失し、約一万人の人が犠牲となることが想定されている。
防災都市神戸の再建では、震度7にも耐える都市づくりが目標とされているが、本当にこのようなことが必要であり、かつ、可能であろうか。構造物を建設するに当たり高い耐震基準を適用することは技術的には可能であるが、被害を免れた建築や都市施設も含めて全ての構造物の耐震性を強化するためには莫大な予算を必要とする。ロンドン大火の後の木造禁止令に習って市街地全域を防火地域に指定することは理論的には可能であるが、住み慣れた木造住宅や割安な木造の商店建築などを諦めることについて、はたして市民の理解が得られるだろうか。一方、神戸が再び地震災害に見舞われる可能性を考えてみると、今回動いた活断層がもう一度同じような動きをするのは千年後であると言われる。もちろん、隣接地域の直下型地震や、おおよそ百年おきに来ると言われる南海地震が発生すれば、神戸市も何らかの影響を受けることになろうが、今回同様の壊滅的な地震が直撃することは当分起こりそうもない。従って、醒めた見方をすれば、神戸の復興に当たっては、当面、震度6程度の地震に備えておきさえすればよいと考えられる。
東京など今後地震の襲来が予想される都市の防御体制についても、震度7を想定して強化することが提唱されている。しかし、1月17日以前の世論では、日本の建築費の低減が命題とされており、また、防災のための各種行政基準は、産業活性化と貿易の促進を阻害するという観点から規制緩和の対象と見なされていた。このような状況を考えると、本当に災害対策が重視されるのかという点については懐疑的にならざるを得ない。
「二度とこのような悲劇は‥‥。」という言葉は、災害の直後の決まり文句である。しかし同時に、「喉元すぎれば‥‥。」のように、時の経過が全てを癒してくれることも事実である。平常時は、災害のことなど考えたくない、というのが一般的な感情であり、そこには、幾分かの真理が認められる。安全と健康は大多数の人々の共通の願いかもしれないが、個々の人生の目標とはなり得ない。多くの人々は、仕事や、趣味、その他の活動の中にそれぞれに自分の人生の生き甲斐を見いだし、それの実現のために命を賭けている。安全や健康はそれらの生き甲斐を達成するための必要条件に過ぎない。当初は感情論が先行して、災害を防止するためには何事も厭わないような風潮が支配的であっても、次第に不幸な記憶は薄れて行き、結局は、潜在的危険に満ちた都市生活を繰り返すことになるのではなかろうか。
災害運命論の受容は、災害対策の専門家にとっては殆どタブーに近いことであるが、諦めにより天災を克服するという東洋的思想は、ある意味で、健全な都市環境を建設する上で必要な思想と考えられる。何事にも優先して災害防止対策を行うという考え方は、忌まわしい軍国主義に一脈相通じるところがある。安全対策という金科玉条のために市民の自由は奪われ、文化的活動は規制を受けるというような社会は、決して健全な社会とは言えない。日常性を犠牲にして、巨額の投資をして、数百年に一度ぐらいしか役立たない対策を準備しても、いざ敵が来襲したときには、その対策の存在さえ忘れられていて役に立たないということは大いに考えられる。
上は国会から下は家族談義に至るまで、震災対策に関する話題が盛んなことは歓迎するべきことであるが、大事なことは一時の感情に流されてはならないということである。刹那的な決意表明をしても、表面的秩序の回復につれて当初の感情は風化し、防災の目標も形骸化されることになる。多数の犠牲者を出した災害の光景を目前にして冷静さを保つことは、専門家にとっても至難であるが、いま最も必要なことは理性的な判断で次の災害にそなえることであり、どこまでが実現可能で、どこから先は諦めざるを得ないのかを明確にすることである。もちろん、理性的な判断だけで住宅環境や都市環境の将来的方向を定めることは不可能であり、住む人の感情を反映した建築設計や市民感情に支えられた都市計画を否定するものではないが、災害に対する個人や社会の感情が、一時的な感情であるのか、或いは、長期にわたって持続しうる感情なのかを見極める理性が必要であろう。
本書の出版に当たっては多くの方々のご助力を頂いた。都市防災の大御所である伊藤滋先生には熱い励ましのお言葉をいただいた。また、学芸出版社の前田裕資氏、森國洋行氏には、隅々まで適切な助言をいただき、一般わかりのよい作文の能力に欠ける我々にとって強力な援軍となった。本書の成果の中には、我々の研究室で卒業研究や大学院研究に汗を流し、巣立っていった多くの学生の貢献も含まれているし、教科書という性格から多くの研究者による既往の成果を引用させていただいた部分も少なくない。図版の転載を快諾していただいただけでなく、大いなる励ましのお言葉も頂戴し感激した例も少なくない。紙幅の都合で、全ての方々のお名前を記すことはできないが、本書の編者・著者を代表して、心から感謝の意を表したい。
2007年春
塚越 功
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