◎民家とは何か
民家といえば一般には庶民の家という意味であるが、地理学や建築学、民俗学などの分野では民家はもう少し限定した意味で使われる。それは民謡や民話という言葉と並べると、その意味が理解しやすい。民謡も民話も、ある地域の民衆の暮らしに根ざして生まれた歌や物語であり、同じように地域の暮らしの器として、地域の素材と技術を用いて、地域の風土に適応してつくられた家、それが民家である。
このように民家を特徴づけるのは地域の家であるという点であり、地域独自のつくりを持つ民家を日本各地に見ることができる。たとえば南部の曲屋(まがりや)、飛騨の合掌(がっしょう)造、肥前のくど造など地域の名前と並べてそのつくりの特徴を表す名前がつけられて、広く一般に知られるところとなっている。
ところが近年民家は、このように歴史や地理や民俗の研究対象であり、あるいは一部の愛好家に注目される存在から、広く一般市民に強い関心を注がれる対象となった。さらに日本国内にとどまらず、海外の研究者や観光客の間においても、民家は日本文化を最も特徴づけるものとして、強い関心と人気を集める現象が顕著に認められる。このような外国人から、民家はMinkaという固有名詞が与えられ、日本文化として敬意を込めて呼ばれている。
このように、一般市民の間では、民家は古民家と呼ばれ、広い意味での民家とは区別されて、特別な価値を持つものとみなされるようになった。戦後急速に進められた近代化の流れによって、古いものや伝統文化が失われゆくなかで、日本人としてのあるいは地方に生きる人々の誇りやよりどころとして、地域独自のかたちを持つ民家が、地域文化の象徴として重要な意味を持ち始めたのであり、古民家の再生という社会現象として大きなうねりを持つに至っている。古くて暗くて現代には合わないものとみなされて、簡単に壊され捨てられてきた民家が、地域再生のシンボルとして改修され、三世代居住のモデルとして、また世代を超えて住み継がれる耐久性のある住宅づくりの原型として注目されている。その意味で、民家は歴史的な住居であるが、今や近代を超える未来住居でもある。
このように民家が歴史的な文化財としてのみならず、これからの地域づくりや家づくりにおいて、その建築的な価値が再評価され、また地域の暮らしのかたちを伝える装置としての役割が、今後ますます大きくなることは確かなことであろう。そのような状況において、民家をつくりあげた技術的特徴やそのかたちに秘められた暮らしの智恵を読み解き、民家を現代に生かす取り組みの一助としたい、ということが本書を著わした動機である。したがって本書は、民家の歴史的研究のような精緻な論理や、実証を目指すものではなく、民家を読み解く視点を多様に用意して、その成り立ちや社会経済的な背景を探ることに重きをおき、また民家の地域的特徴については多くの類書があるので、むしろ民家の細部に着目して、民家に共通する技術的な特性を浮き彫りにすることを目的として書かれている。
これまでの民家研究で、戦前に行われた柳田國男や今和次郎による民俗学の立場からの民家研究および竹内芳太郎や石原憲治らの建築学からの研究においては、実地調査に基づきながら、庶民の生活文化のなかで民家を捉え、あるいは民家を農村の社会経済的な発展のなかで捉える研究が試みられた。しかし、その軸となる民家の歴史的変遷が不明確なために、その当時の研究には限界があったといえる。そのなかで、今和次郎は、民家には土間と板の間と座敷の三つの異なる空間が存在すること。それらが縄文時代の竪穴(たてあな)住居、古代の寝殿造、中世の書院造を受け継ぐものであること。そしてそれらには別の信仰、すなわち土間には荒神様や水神様などの竪穴式住まいの時代の伝承、板の間には平安の公家時代以後の神仏、そして座敷には武家時代の伝承を残していることを指摘している。ここに示されているように、当時の民家研究には今日においてもなお色あせない、民家の本質に関わる重要な仮説が提示されている。
戦後の民家研究は、建築史学という明確な研究方法に基づいて、体系的に展開され、民家の歴史的な変遷が明らかにされた。しかしそれで研究が終わったのではなく、そこであらためて民家を相対化し、生活の変化すなわち社会経済的な発展のなかで民家を捉えて日本の住居史に位置づけること、また東アジアの文化的脈絡の中でその特質と成立の過程を探る試みが、今こそ求められているのである。そのことによって、民家とは何かという、民家に注目する一般の人々や日本文化に興味を抱く外国人の発する問いに初めて答えることができるのではないだろうか。本書は民家研究に対するこのような問題提起を意図したものでもある。
◎民家造という仮説
日本の住居史に登場する様式として、先史時代の竪穴住居、古代の貴族住宅としての寝殿造、中世の武家住宅としての書院造、そしてそれに続く近世の数寄屋(すきや)造が知られている。これらの住宅様式は、その建築的特徴が明確であり、それが造(つくり)という名称に表されている。しかしそれに続く庶民の家としての民家には、日本列島に展開する地域の民家としての合掌造や中門(ちゅうもん)造やくど造のような名称は数多くあるが、それらを総じて民家造と呼ぶことはなかった。それは民家には地域的な多様性が大きく、それらに共通する様式としての特徴が見いだしにくいからである。しかし今までその言葉がなかったことは、地域的に多様な民家に普遍的な特質を探るという視点が欠如していたことをも意味する。各地の○○造という民家同士を相互に比較研究することには関心が向けられたが、民家の建築的特徴をその他の住宅様式に照らして探る試みや、日本の周辺地域の住居と比較検討してその特質を明らかにすることは、重要な課題とはならなかった。
本書は、民家造という仮説をあらためて提示することで、民家の技術的、形態的な特質を探ることを目的に書かれたものである。その方法としての特徴は、まず歴史上に民家の登場した同時代の上層階級の住宅様式である、書院造や数寄屋造との関係に着目して民家造を位置づけること、次に、日本列島の周辺地域、すなわち沖縄諸島に連なる南方の諸国と北海道から樺太(からふと)に連なる北方の地域および朝鮮半島の住居の資料に照らして民家造を読み解くところにある。
書院造は中世の終わりに登場した住宅様式で、中国大陸や朝鮮半島の影響の大きい寝殿造をもとにしながらも、日本独自の住宅様式として完成されたものであり、それに続いて近世初頭に成立した数寄屋造は、室町時代の終わりに生まれた草庵(そうあん)茶室の形式を書院造に取り入れたものである。これらの住宅様式は草庵茶室を含めていずれも、応仁の乱に始まる戦国時代(15世紀後半から16世紀後半)に登場したという点で特色があり、民家もまたこの時代の転換期に登場したという点で共通し、それらの住宅様式の成立の背景には、いずれも戦国時代という時代背景が大きく関わっているのではないかというのが、本書のひとつの視点である。
沖縄の民家は、本土の文化的影響を受けながらも、大陸や半島そして南方諸国との文化的交流に基づく独自の混合文化を生みだし、その民家は本土の民家とそれらの地域とをつなぐ存在として重要である。また北海道のアイヌの住居チセは北方の狩猟採集文化を受け継ぎ、日本の民家の北方的性格を探る上で重要な手がかりを与える。さらに、朝鮮半島の住居は、北海道と同様に北方アジアの文化的系統を受け継ぎ、日本列島と大陸文化の接点として重要な位置を占める。これらの三つの周辺地域の住居の資料を参照しながら、日本民家の地域的特徴を、日本列島という枠組みを超えて再検討し、民家造の特質の外形を描くことが、本書のもうひとつの視点である。
中世の住宅に関する資料は数少なく、また周辺地域の住居に関する情報も限られている。だからこそ、同じ時代の、同じ地域の、違った住居形式を同じ土俵に載せてその脈絡を探る試みには意味がある。その作業から民家造成立の社会経済的背景や東アジア文化圏の中での位置づけを思い切って描いてみること、それが本書の特徴であり、目指すところといえる。
◎素材を生かす技
民家造は地域の素材と技でつくられるところが特徴のひとつである。温暖で多雨な日本列島には、南西日本で照葉樹林、東北日本では落葉広葉樹林の森林が国土を覆い、森林資源に恵まれた生態学的な環境のもとに、暮らしが営まれ、住居がつくられてきた。約1万3000年前、氷河期の終わり頃、地続きとなった日本列島にシベリアから縄文人の祖先が南下してきた。寒冷な気候のなかで当時の日本列島の東北部は草原や疎林が広がり、大型の哺乳類が生息し、それを狩猟するために移動生活が営まれていた。その後まもなく氷河期が終わり、温暖化に転じた気候変動のなかで、今日のような森林地帯に変わった日本列島では、縄文人は狩猟に加えて森林での採集や沿岸での漁猟を営むことで定住という居住様式を受け入れた。
移動から定住へという居住様式の変化のなかで、移動に向いたテントと定住のための竪穴住居という二つの対照的な住居形式が、縄文人にとって選択肢となった。定住がその周辺環境に及ぼす影響は、移動居住に比べると格段に大きく、森林の姿は大きく変わる。西田正規の『人類史のなかの定住革命』によれば、それは人間と自然の共生関係と呼ばれるものである。採集するのに都合のよいクリやクルミやシイ等の木が残され、炊事や暖房のためにその他の木が切られることが繰り返され、自然の植生とは違った、森林と人間の共生関係に基づく生態学的環境が築かれる。縄文時代中期に日本列島に焼畑農耕が始まると、その共生関係はさらに強まり、定住の基盤が築かれていった。
このような森林と居住の共生関係のなかで、森で木を切ることを暮らしの基本とし、食用として有用な木材資源を選び育てて、それを生かした住まいをつくる技術が発達する。自然植生としての森林をそのまま利用するのではなく、ある特定の木材を重点的に利用して、住まいをつくる方法は、縄文時代の定住生活によって始まり、その基本は民家造に受け継がれていると考えられる。
そして、2600年前に日本列島に南方から稲作農耕が伝えられると、共生関係の相手は森林から草原に変わる。焼畑農耕においても森林は伐採と再生の繰り返しで安定していたが、稲作農耕の拡大は森林の草原化を意味する。木の実から草の種に主食を変えた日本人は、弥生人と呼ばれ、縄文文化が列島の東北部にその文化的、経済的中心があったのに対して、弥生文化の中心は西南日本に移る。したがってこのいわば森林文化から草原文化への移行は、西南日本において早く始まり普及する。一方、縄文文化の中心地域であった東北日本では森林文化が根強く残り、草原文化の普及は遅れた。
このような森林と草原の資源的な背景の違いによって民家造が規定されるのは、民家造が地域の素材を使うという性質上当然の原理と考えてよい。茅葺き屋根はこのようなまさしく草原文化の中で生まれた民家造であり、土壁は稲作農耕の拡大によって導入された民家造なのである。そして森林文化の根強い東北日本では、豊富な薪を燃やすいろりの暖房と雄大な木造架構を持つ民家造が発達したのである。
◎暮らしを映すかたち
日本列島と大陸の住居を比べると、決定的な違いは守りの構(かま)えが弱いことである。大陸とつながっている朝鮮半島の住居においても、大陸と同じように守りは固い。日本列島は大陸とは海で隔たれ、異民族による侵略の歴史は先の世界大戦までなかったので、内乱による一時期以外はおおむね平和な時期が長く続いたなかで、住居がつくられてきた。大陸や半島の住居が壁で囲われ、都市や集落が城壁で強固に囲まれているのに対して、日本の住居は開放的で、古代の都市が大陸の形式に従ってつくられても、城壁で囲われることはなく、城門も形式的で象徴的なものにとどまっている。
したがって木材や草等の植物資源を主体として住居をつくる特徴は、その豊かな資源的背景の他に、石やレンガ等の防衛的な構えをつくるのに向いた素材を使う必要がなかったことによる。このような日本列島の住居の開放的性格は、東アジアの同じような気候条件を持つ朝鮮半島南部や中国の江南地方の住居と比べても際立つものであり、その開放的性格が高温多湿な気候風土にのみ対応した結果でないことは明白である。
日本の歴史上このような開放的性格が著しく後退し、守りの構えが重視された時代が一度だけある。それが15世紀から16世紀にかけての戦国時代である。この時代の住居は厚い土壁で囲われ、集落や町は土塁(どるい)や環濠(かんごう)で守られた。この時代は大陸と同じような社会状況が生まれ、住居に大陸的な閉じたかたちが発達したのである。まさしくこの時期に民家造が出現したのは偶然ではないし、草庵茶室もまたその背景なしには、その狭く囲われたかたちの成り立ちを説明できない。これらは戦争を招いた社会状況がつくりだした新たな住居の技術開発であり、デザインなのである。
その後江戸時代中期になると、日本列島には長い平和が戻り、地域社会の産業振興が図られた結果、豊かな生活文化が各地に花開き、住居は再び開放され、かつ生活に即して、民家造が各地に独自のかたちで発達していくのである。
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