4 事例紹介・舞鶴のまちづくり物語
何か悲観的なことばかり述べましたけれども、そうでないこともあるわけです。もうあまり時間が無くなってきましたので、積極的な動きをしている町を紹介をしたいと思います。
京都の舞鶴(写真4)という町はこの10年足らずで大変元気になっています。
東舞鶴は軍港で、明治30年代に海軍の鎮守府が置かれました。そのとき初めて町ができたわけですから、新しい町です。その後この町は引揚港になって「岸壁の母」のモデルとなりました。今でも港の大半の部分は海上自衛隊が使っていますので、その意味でイメージがあまり良くない港でした。ですからあまり元気がなかったわけです。
一方、西舞鶴は昔からの城下町です。東と西では仲がほんとうに悪い。東は軍港、全く歴史がない。ところが市役所は東にあり、経済的には東が力を持っている。人口も少し多い。西の人はそれが面白くないわけです。一方、東の人は経済的には力を持っていますが、歴史が無くなかなか元気が出なかったわけです。
写真5は駅前ですが何となくさえない。いつもどんよりとしているわけです。日本海側ですから「弁当忘れても、傘忘れるな」とよくいわれます。
写真6は舞鶴引揚記念館です。これが唯一の目玉ですが、いかにも暗い施設です。ちらしも暗いんですね。
その舞鶴のまちづくり研究会のグループが横浜に来ました。横浜にもまちづくりに大変熱心なグループがあります。「まちけん」と呼んでおりますけれど、そこにどうやったらまちづくりがやれるのか、相談に来られたわけです。ちょうど見学会があって、一緒に行ったのが、皆さんご存じの新港埠頭にある赤煉瓦倉庫です。写真7は改修される前、国が持っていた頃の写真です。
これを横浜の人は自慢げに見せたわけですね。横浜にはこんなにすごい歴史資産があると。ところが舞鶴の人は全然驚かないわけです。こんなのは我々のところにはいくらでもあると。逆にそれを聞いて横浜の人は驚くわけです。自分たちはすごいと思っていたのに、舞鶴とは一体どんなところかと思ったわけです。
たしかに舞鶴にはこんなのはいくらでもあるわけです。写真8は民間に払い下げられて、今は舞鶴倉庫が持っているそうです。
写真9は今でも、海上自衛隊が持っているものです。
こういったものがあるわけですから、舞鶴の人には見慣れた風景だったわけです。ところが舞鶴の人にとって、これはマイナスのイメージだったのです。軍の施設だったし、今も行けないし、なおかつ海を閉ざしている元凶みたいなものです。ですから、全然評価してこなかったわけです。見ても見えなかったわけです。それが横浜に行くことによって、赤煉瓦が面白いということになるんですね。
そこで町中に赤煉瓦がどのくらいあるのか探してみようということになったわけです。赤煉瓦倶楽部をつくり、建築探偵団のようなことをやり始めました。それが7年くらい前のことです。
そうすると、さらにたくさん見つかったわけです。
写真10は煉瓦の参道です。これは石が敷けなかったから煉瓦を敷いたんじゃないかと思いますが、普通見ていると何のことはない、むしろ石よりも劣っているとみていたのかもしれません。しかしどれだけ赤煉瓦が使われているかという目でみてみると、大変貴重なものにみえてくるわけです。
写真11の煉瓦窯も見つかりました。これはホフマン窯という窯ですが、日本で四つめだということがわかったのです。これは市街地からずっと離れたところにありましたから、誰も見向きもしなかったのですが、赤煉瓦が縁になって再発見されたわけです。そこで、このホフマン窯のなかの見学会も行なわれました。
そして、舞鶴赤煉瓦浪漫(写真12)という、赤煉瓦マップを彼らはつくりました。
マップの裏には、舞鶴にある赤煉瓦の施設がたくさん紹介されています。
90年11月に赤煉瓦のシンポジジウムが開かれました(写真13)。そこに2百人くらいの人が全国から駆けつけてくれたのです。
演壇も赤煉瓦風。遊び心でやっています。
市長さんがこの盛況さに一番驚きました。舞鶴は行きにくいところです。なのに赤煉瓦ということでたくさんの人が来てくれた。赤煉瓦の好きな人。赤煉瓦おたく。赤煉瓦があるので町おこしをしたいと思っている人達。それから、赤煉瓦をつくっている人達。窯業組合の人達。そういう人達が集まったのです。
見学会もやりました(写真14)。
写真15の赤煉瓦には工場のスタンプが押してあります。桜みたいな印ですが、これが見つかると、この赤煉瓦はいつ頃どの工場でつくられたのかがわかるのです。写真14の人はこれを指さしていたのです。普通はこんなは知らないし、何の関心も持たないわけです。ところがそういうことを知ってみると、大変貴重なものに思えてくるわけです。
そんな赤煉瓦を貴重だという気持ちが、市役所の横にある赤煉瓦の倉庫をライトアップすることに繋がりました。
また、市役所の横に魚雷の倉庫が残っていたのですが、これを赤煉瓦の博物館にしたらいいねということになり、実際に再生され、赤煉瓦博物館(写真16、17)になりました。
大変魅力的な赤煉瓦博物館に生まれ変わっております。
中は写真18のようにボロボロだったのですが、写真19のように立派な施設になっております。
インフォメーションの所は、先程言ったホフマン窯に似せたつくりで造られています。いろんなコレクション、まあ、レンガおたくのコレクションかもしれませんが、そういう企画展をやったりするわけです。
赤煉瓦のウォークラリーも始まりました。
写真20は赤煉瓦が密度濃く残っているところです。まちづくり研究会のメンバーで、こういうところでコンサートやりたいねという話がでて、実現しました。91年のことです。
開かれたのはジャズコンサートです。これは今でも続いております。山下洋輔トリオがメインなのですが、山下洋輔のおじいさんは赤煉瓦の建築家で、監獄建築をたくさん造った人です。
1千2百人も集まりました。今も夏の恒例イベントになっております(写真21、22)。
写真23は赤煉瓦の地下道です。
このように盛り上がると、赤煉瓦グッズが色々出てきます。傑作なのが赤煉瓦羊羹です。土産物も作られるようになりました。
写真24は舞鶴倉庫、一番メインの幹線の道路ですけれど、ここがライトアップされるようになりました。
写真25のように見事なライトアップをしています。
写真27のライトアップは、最初にお見せした海上自衛隊の倉庫(写真26)です。海上自衛隊にお願いしたら、ライトアップをしてくれました。自衛隊も変わったなと思うわけです。戦争でもあったら、まっさきに空襲に遭いそうですが(笑い)。
こういう形で海上自衛隊も巻き込んで赤煉瓦のまちづくりが、この10年足らずの間に進み、町が大変活気づいてきたわけです。こういう町が日本中に増えてきているんじゃないかと思います。私は先ほど悲観的なことを、特に東京中心に申し上げましたが、日本中をみてみると、このように歴史を活かしたまちづくりが大きなキーワードになってきていると思っております。
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