それでは今日の本題であります「歴史を活かしたまちづくり」についてお話ししたいと思います。まず簡単な経緯をお話しし、次に最近どういうことがおこっているのかをお話しします。最後は事例をスライドでお見せしながら、これからの方向性について考えてみたいと思います。
大きく流れを捉えると
まず最初に略史です。
どういう形で歴史を分類していくのかは視点によって違うのですが、いくつかあります。
30年ごとに繰り返された破壊と保存のせめぎあい
例えば、破壊と保存の攻めぎあいみたいなものは明治以降ずっとあるのですが、そういう流れでみますと、ほぼ30年ぐらいの周期で大きな破壊があって、それと同時に守ろうという運動が起きてくるということを繰り返して今日まできているような気がします。
最初の大きな波は明治維新のころです。1870年頃ですが、この時はとにかく新しいものにするんだということで、古い建物は壊されてゆきました。それに対して古いものを守らなければならないという法令が初めて出たのが明治4(1871)年です。
次の大きな波は、1900年、日清戦争と日露戦争の間ぐらいで、日本の産業革命が始まった頃です。
このころ日本中に鉄道が敷かれてゆきました。例えば東海道本線が全通したのが明治22年、1889年です。日本中に線路がひかれ、それによって開発がおこったわけです。と同時に、そういった開発から自分たちのまちを守らなければいけないという愛郷運動がおこったのもその頃です。保勝会や史跡保存会のようなものは、ほとんどが明治30年前後にうまれています。
3番目の波は1930年から少し遅れ、40年代の戦災の波であります。
そして4つ目の波は60年代、高度成長期です。様々なものが壊されてゆきました。例えば超高層ビルが初めて建って景観の問題が起きたり、京都タワーの問題が起きたりしたのはこの頃です。それに対して古都保存法ができたのが66年です。
それからまた30年たった90年代、バブルの頃ですけれども、京都タワーの30年後に京都駅や京都ホテルの問題がおきています。
このようにほぼ30年ごとに、破壊の波がおき、それに対して市民の反対の運動がおこっているわけです。
制度から見た時代区分
また各地の環境保全に関する条例がいつできたかを、当時私のところの大学院生だった栗林さん(現文化庁)がまとめたものをみますと、二つの大きな山があることがわかります。
一つは70年代前半に自然保護や歴史的町並みの保存を中心とした条例ができております。もう一つの山は80年代後半からバブル期にかけてです。これはいい都市景観をつくっていこうという条例です。これは今でも増え続けています。一つ目は保存型条例のピークで、二つ目は創造型の都市景観条例のピークです。
また制度で分けると60年代は歴史的な環境の発見の歴史だと思います。
70年代は75年に文化財保護法が改正され伝統的建造物群保存地区という制度ができたことが特徴的です。ですから、これは制度ができた時代といえるわけです。地方条例が先にでき、国の法律が後で変わったわけです。
80年代はいわば都市景観の時代といえると思います。
90年代、特に92年以降は私は景観まちづくりの時代といっているのですが、単に景観だけではなくまちづくりとうまく合わせて、まちづくりのいろんな活動や仕組みの中に景観の問題がくみこまれていった時代だと思います。ですから、歴史を活かしたまちづくりのテーマがちょうど10年区切りで少しずつかわってきたと言って良いのではないかと思います。
それでは少し駆け足で、初期の事例をご紹介したいと思います。
鎌倉
図2は昭和22年、37年、48年の鎌倉の樹林地の状態を示したものです。樹林地が無くなっていっているのが、よくわかると思います。鶴岡八幡宮の裏山などの緑地が削られています。こういう状態をなんとか止めるために、60年代の半ばには市民活動が起こりました。
図2 開発変遷図(樹林地の推移)
もっとも問題になったのが「御谷(おやつ)」という、鶴岡八幡宮の裏山の部分です。ここが開発されそうになった時、保存運動が起きたわけです。鎌倉風致保存会がうまれました。それが大きなきっかけとなって古都保存法が66年にできました。市民運動がひとつの法律をつくりだした、ある意味では市民立法に近く、日本では大変めずらしいケースです。
これは世界的にみてもそう遅れはとっていなかったと言えます。こうした面的な保存が世界でおきたのも60年代でした。同じ66年に、アメリカの国家歴史保全法ができております。翌年、67年にイギリスで保存地区、面的な保存地区をきめたシビックアメニティーズ法ができています。フランスはちょっと早くて62年に保存地区・制度が生まれています。時の文化大臣はアンドレ・マルローでしたが、彼がつくったマルロー法が62年です。ほぼ同じ時期に日本でもこうした活動の成果が法律となって実を結んだわけです。
それまで守る手だてもなく、なんの網もかぶっていなかったわけです。市民活動の結果、法律ができ、そのもとで歴史的風土保存区域あるいは歴史的風土特別保存地区という制度ができ、周辺の緑を守ることができるようになったわけです。
鎌倉では、最初は図2のように鶴岡八幡宮、鎌倉周囲に規制がかけられたわけですが、次第に広がってきています。今、さらにもう少し広げる検討がなされています(図3)。
法規制による指定地域の分布
金沢
金沢は地方都市として最初に歴史的な環境を守る条例をつくった都市です。68年に金沢市伝統環境保存条例をつくりました。それを受けて伝統環境保存区域を最初は8区域指定していました。その後、徐々に指定を広げてゆき、今では金沢の古い地区のかなりの部分がこの区域に含まれています。
その後91年に条例が改正され、単に古いところを守るだけでなく、新しい近代的な商業地は再開発の結果それなりの顔をもつようにという狙いで近代的都市景観創出区域もつけくわえられています。
近代的都市景観創出区域がかけられたのは、まず旧町家筋です。これは町家筋から駅前の区画整理をしたところへ至る地区です。そして駅西へ都市軸を延ばし将来は県庁が移転するところへ向けて大きな都市軸に沿って新しい区域をつくったわけです。
守るという条例から創るという条例にかわってきたと先ほども言いましたが、金沢の場合は一つの条例が改正され、守るという部分だけではなく新しい良い景観を創っていくという部分も一緒になっていった典型的な例です。
区域は図4のように分かれています。伝統環境保存区域が32区域、近代的都市景観創出区域は13区域あります。そしてそれぞれに細かいガイドラインがあり、そのほか屋外広告物の規制、高さの規制などがかかっております。
図4 伝統環境保存区域・近代的都市景観創出区域図
図5は高さの規制ですが、それぞれの地区、区域ごとに絶対高さが定められております。一番厳しいところが8m以下、ついで10、12、15、18、20、31、45、50、60と段階別になっています。きめこまかくコントロールがされているということがおわかりになると思います。また屋外広告物については、広く住宅地の部分でもコントロールされています。
図5 伝統環境保存区域・近代的都市景観創出区域高さ基準図
京都
保存の長い歴史をもっているのが京都です。京都は70年代のはじめに市街地全体をコントロールしようという京都市市街地景観条例を定めています。これは日本で初めての試みでした。さらに95年には、歴史的なところだけでなく市街地全体をトータルにコントロールしようと大きく拡充され、現在では京都市市街地景観整備条例と名前がかわっています。
図6を見ると外側に風致地区や古都保存法の歴史的風土特別保存地区がかかっており、中では工作物の高さが規制されています。京都タワーのようなものが二度と建たないようにと規制されているわけです。それから美観地区が、大きなモニュメントである御所、二条城、東西本願寺、東寺の周辺にかかっています。また、鴨川の東側に900ヘクタールにわたって、美観地区が指定されていて地域の環境を守ると同時に東山の景観を保存しています。この高さ規制により都心部から東山の山並みが見えるようになっているわけです。
図6 景観地域図
東山はなにも偶然に守られているのではなく、山そのものが古都保存法や風致地区条例で開発が厳しく規制されていて、なおかつ手前の地区が美観地区になっており、高さが抑えられて眺望が守られているわけです。何重にも規制がかけられて、ようやく東山が守られています。そうでないと東山はディベロッパーに狙われやすいところなのです。周りは緑が豊かですし、高台ですから見晴らしも良くマンションを建てると京都市が一望できます。なおかつ大文字の送り火などが見られるとなると、ディベロッパーにとっては一番ねらい目の場所です。その意味でなんとか守るためには、こういった厳しいコントロールが必要なのです。
倉敷
倉敷で戦前から大原総一郎が中心になって日本のローテンブルクをつくろうという運動が起きておりました。そういう意味では日本で最も早い段階から歴史的なものをいかしていこうという運動がおこったのが倉敷です。
日本で一番最初の「歴史を活かしたまちづくり」団体は都市美協会です。これができたのがなんと49年です。他の運動団体は早いところで60年代なので、倉敷はとびぬけて早くこういう活動を始めているのです。その背景には大原総一郎が大原美術館をつくったこと、民芸運動が大変さかんで倉敷民芸館が早い時期に設立されたこと、そのために民芸活動家が多く集まり、運動を支えていったという歴史があります。
ところがそれだけではなくて、倉敷には非常にユニークな動きがあります。図7の太線で囲った地区が伝建地区、歴史的町並みの地区なのですが、ここには厳しい許可制がしかれています。しかし周辺地区はそれほど規制が厳しくないので、そこに高い建物が建つという計画がおこるわけです。90年のことです。8階建てと12階建てのホテルの計画が起きます。これが建ちますと、倉敷川、中橋周辺から見ますとせっかくの町並みの向こうに、にょきにょきと高い建物が見えるという事態がおきそうになったわけです。
図7 各種指定線引図
倉敷市はこれを大変憂慮しまして、迅速にこれに対応しました。この計画が起きて3ヶ月経たないうちに倉敷市伝統的建造物群保存地区の背景の保存に関する条例ができました。背景条例といっていますが、日本で初めて90年にできるわけです。
といっても日本でやれることは限られておりまして、伝建地区から見て背景になるようなところに高い建物を建てることを規制しようというものです。図7のチェックのハッチがかかっているところがそれにあたるわけですが、こういうところに高層ビルを建てようとした計画は、高さを低くしたり、屋根部分を景観にマッチさせるといった工夫がみられるようになっています。
岡山・後楽園
現在では岡山県が後楽園周辺で背景を守ろうと熱心に取り組んでいます。後楽園には庭がありますが、この庭から見えるところに高い建物が建たないということのために、背景を守っているわけです。後楽園はおそらく日本の名勝・庭園の中で、いちばん周辺の景観が守られているところだと思います。非常に広い借景を持っている回遊式の庭園ですが、メインは「延養亭」というお茶室です。その「延養亭」から見たときに、借景となる部分の高さが規制されています(図8)。
図8 延養亭からの眺望
同時に、周辺全体に高さ規制がかかっています。こうした大名庭園まわりの背景をどうやって守っていくかは難しい問題です。実は今日の会場である文京シビックセンターは小石川後楽園から見るとニョキッと出ていて背景を阻害しているわけです。また、小石川後楽園のまわりには他にも高層ビルが建とうとしておりまして、これは今高さ問題でもめています。