日本型都市計画とはなにか


あとがき


 あらためて各論文を執筆した時期を、時系列で整理してみる。
 もっとも早い時期に手がけたのは、「第6章 イギリス田園都市論は戦前期日本でいかに解釈されたか」(*1)で、1975年の4月に着手、1981年に発表している。その背景には1973年末からの滞英がある。この間、ハワードの設立した都市田園計画協会と、レッチワース田園都市を管轄するハートフォードシャ県庁へ在籍した。田園都市との縁の始まりである。
 滞英の時期は、イギリス都市計画の現場をあこがれと好奇心でながめていた。イギリス都市計画をモデルととらえる姿勢は、明治以来の先達たちとなんら違わない。しかし学位請求論文、『イギリス都市計画の歴史的構造』(1978年)の執筆過程で、「相対化」(*2)の視点をもちたい、「比較都市計画の理論」を構築したいと強く願うようになった。
 この「相対化」の視点は「生活空間システムの円錐」(図1・2など)として、ひとつまとめ方を示すことができた(*3)。また「比較都市計画の理論」(第1部)は、日韓の都市計画比較を通じ理論化が始まり(1985年)(*4)、日英の比照研究の蓄積、その後、第三世界へしばしば講演・調査旅行したことが、第2章の論文、「日本を基軸に世界都市計画の構図を描く」(1990年)の執筆につながった(*5)。
 つまり本書は「田園都市」(第2部)を出発点とし、「比較都市計画の理論」(第1部)を到達点としている。そしてそのはざまに、第3部の中核論文、「第8章 日本型ニュー・タウン像を求めて」(1989年)(*6)、第4部の中核論文「第10章 なぜクル・ド・サックは台湾・高雄で失敗したか」(1988年)(*7)、さらに第5部、「日本の区画整理を第三世界へ技術移転する」(1980年代半ば)の諸論文がある(*8)。
 これらはおもに1980年代、バブル発生と時を同じくして書いたもので、自らを「相対化」すれば、高揚した時代と日本社会を背景にしていたといえよう。そして第三世界、西欧先進国へ講演、調査のため出かけた。こうして、戦後第三世代の都市計画家であるわれわれにして初めて、先進国から第三世界、そして勃興しつつある成長期社会を含めた、世界都市計画の全体像を捉えることが可能になった。その際の気概はつぎのごとし。

踏み分けよ やまとにはあらぬ▽漢鳥▽△からとり△の跡を見るのみ 人の道かは(*9)

 漢鳥であれ英鳥であれ、他国の鳥の跡でなく、日本独自の道を切り拓きたい、日本型都市計画として理論化したい、との強い願いを持っていた(*10)。
 ここであらためて、冒頭のつぎの思いを記しておきたい。

 21世紀都市計画は、国際交流、国際協力などを通じ、ますますお互いに影響を与えあう、交流の時代に入った。「都市計画の国際化」である。……諸国の都市計画を相対化し、「世界都市計画の構図」の全体像のなかで考えることは、……日本の都市計画家に課せられた社会的使命のひとつといえよう(「はじめに」第5節)。

 本書は、多くのかたがたのご指導のもとでなりなっている。日笠端、本城和彦、井上孝、川上秀光、森村道美の諸先生方には、最初の滞英、学位論文のとりまとめ以来、ご指導いただいた。またそれぞれのケース・スタディではつぎの諸先生方にお世話になった。記して厚くお礼申しあげます。
 石川允、石田頼房、伊藤滋、今井晴彦、上田篤、小沢一郎、加藤源、桐英二、楠本洋二、今野博、佐々波秀彦、司波寛、武内和彦、張素連、土田旭、寺西弘文、土井幸平、中野三男、蓑原敬、山田正男、依田和夫、渡辺俊一、渡部与四郎、蔡添璧、張世典、黄世猛、宋清泉、康炳基、ウイリアム・ドーブル、ナサニエル・フォン・アインシーデル、ジョン・ハブラーケン、デイビッド・ホール、モハメッド・ハッタ・アディズ、サンドラ・ハウエル、レイ・パール、クリス・ピックバンズ、ロイド・ロドウィン、アントニィ・サトクリフ、フランク・シュニッドマン(敬称略)。
 また西井信幸、斎藤文伸、石浦裕治、浪上洋文、前川克敏、YAN Sang-Kuu、岩田武久、長谷川洋之さんの修士論文を指導し、論を展開することができた。さらに出版の際、学芸出版社の前田裕資さん、井口夏実さんのきめ細かな協力をえることができた。記して感謝したい。
 なお本書は、東京電機大学学術研究出版助成を受けた。
2002年初春 神宮の森にて   西山康雄

*1 拙稿「田園都市論と戦前期日本都市計画@AB」『季刊 田園都市』日本地域社会研究所、第2巻第1,2,3号、1981年1,4,7月。さらに第5章の初出はつぎの論文である。拙稿「ハワードが田園都市に描いた生活空間システムとはなにか」『地域開発』日本地域開発センター、1999年4月。
*2 イギリス都市計画を優=英、劣=日の軸ではなく、そのものとしてながめ、成立させている特殊イギリス的な社会・歴史的条件を解明すること。
*3 相対化の視点にもとづく都市計画の定義として、「都市計画は生活空間を扱う社会的技術である」「都市計画は、一国の社会・歴史的条件、つまり社会的基盤に根ざしている」「都市計画は生活空間システムの全体にかかわる総合的社会工学である」を本書、第1章第2節で解説した。
*4 拙稿「変化型社会におけ都市計画像」『不動産研究』1984年4月、10〜17頁。拙稿「分極化する都市計画像と日本の寄与」『国際比較による大都市問題調査研究報告書』国土庁、名古屋市、1985年3月、131〜144頁。拙稿「分極化する都市計画像」『群居』第8号、1985年4月、1〜6頁。
*5 拙稿「日本を基軸に世界都市計画の構図を描く」『都市計画』第163号、日本都市計画学会、1990年4月、15〜23頁。拙稿「社会の変化・発展と都市計画像の変遷」『総合都市研究』東京都立大学都市研究所、第55号、1995年。
*6 西山康雄・石浦裕治、「高蔵寺ニュー・タウンの変容;日本型ニュー・タウン像の検討のために」『都市計画論文集』日本都市計画学会、第24号、1989年11月、541〜546頁。
*7 Yasuo NISHIYAMA,A"Why the Taiwan-type Cul-de-sac failed in Kaohsiung?", The Third International Planning History Conference, Planning History Group & the City Planning Institute of Japan, 1988 November.
*8 第5部の各章のもととなった主要論文はつぎの通り。第11章は、拙稿「区画整理技術移転の成果と課題」『都市計画』日本都市計画学会、第155号、1988年11月、第12章は、拙稿「〈説得のワザ〉としての区画整理」『都市計画』日本都市計画学会、第175号、1992年5月、第13章は、@拙稿「韓屋型区画整理の空間構成に関する研究」『都市計画』日本都市計画学会、第19号、1984年11月、A拙稿「ソウルの戦前期区画整理地区を歩く」『区画整理』日本土地区画整理協会、第30巻5号、1987年5月、B西山康雄、YAN Sang-Kuu「街区概成型土地区画整理事業地区の空間構成にかんする研究」『都市計画論文集』日本都市計画学会、第23号、1988年11月、最後の第14章は、拙稿「区画整理インドネシアに花開く」『区画整理』日本土地区画整理協会、1988年4月である。
*9 荷田春満作。日本経済新聞コラム欄、1998年5月27日。
*10 技術移転先の、相手国の都市計画家にとっても、「やまと鳥の跡を見るのみ、人の道かは」との思いがあることを忘れてはならない。