美しい都市をつくる権利

書  評

『地域開発』((財)日本地域開発センター) 2003.5
 「美」とは一見抽象的で主観的なもののように見える。しかし、現実に多くの人が美しいと感じる都市は存在する。かつて日本は美しかった。が、現在、日本で「美」は危機に瀕しており、早急に立て直す必要がある。
 誰でも美しい都市に住みたいと欲している。それを阻害しているものの1つが法律だとしたら、それは変えられなければならない。21世紀日本にとって、「美しい都市にすむ権利」を定めるということは、不安を解消し、市民に希望を与えていくことなのである。
 本書では、ハワイのコナ、アメリカのコロンバス、イギリスのエディンバラ、広島の鞆、群馬県新治村、東京都国立市を取り挙げ、美しい都市というものについてパタン・ランゲージを随所に取り入れながら考察を行っている。そして、それらを踏まえ、以上のような主張から、「美しい都市をつくる権利」について、これを国民の最高規範である憲法によって保障しようというのが本書の提案である。


『計画行政』(計画行政学会) Vol.26
 本書は、「美しい都市をつくる権利」という題名から想像されるような表面的な都市景観を説明した本ではなく、どうしたら美しく健全な都市をつくることができるのか? というテーマに対して、法律や社会制度の観点からその解答を得ようと試みたものである。とはいっても、都市計画などの法律論に終始するのではなく、都市の美しさに対する著者のビビットな感性が随所に現れており、読みやすい本となっている。
 冒頭、クリストファー・アレグザンダー著の「パタン・ランゲージ」で示された「パタン」の解釈から始まる。「パタン」とは、古来から地元の人々によって意識的にあるいは無意識的に作られてきた、美しい都市を構成する様々な要素を示すものである。このアレグザンダーの「パタン」を共通の視点として、米国ハワイ島カイルア・コナ、広島県福山市鞆の浦、米国インディアナ州コロンバス、群馬県新治村、英国スコットランド・エディンバラ、東京都国立市という優れた都市景観を有する内外の6都市について、都市景観、景観要素、都市の成り立ちなどについて分析している。
 それぞれの都市については、美しい景観やその構成要素が淡々と説明されており、その都市に行ったことのない者でもその場にいるような感覚を覚える。次に、その都市を取り巻く社会的動きが紹介されるのであるが、「どうして美しい都市を創ることができたのか」、あるいは「どうして美しい都市を守ることができなかったのか」という率直な疑問を自然に読者に抱かせる。
 この疑問は、コナの章では漠然としているが国立市の章に至っては明確な輪郭を帯びてくる。筆者はいう。「『美』は鑑賞されたり、論評されるだけのものではない。それは創られるべきものである。『美』を主観だと主張する人々には共通した特徴がある。それは彼らが過去のあるものを対象にして『批評』し『論評』しているにとどまっているということである。」また「美を制度や経済といった社会的な文脈で読み解き、かつその文脈に影響を与えるものとして再構築しようとする試みはなかった。」
 結局、アレグザンダーのいう「パタン」にしても、それをいざ創るとなれば、どうしても法律や社会制度、さらには憲法や民主主義に対する議論を抜きにしては実現できないであろう、したがってそのような議論を始めることが重要なのである、というのが筆者の考えのようである。
 憲法論的に都市論を論じた場合の筆者の主張は、@憲法の基本的人権について、強大な国家からひ弱い個人の権利を守るのではなく、もともと国民に主権があること、A人権の対象が個人だけになっているが、NPOなどの集団やコミュニティーの権利を認めること、B「何々をしてはならない」という規制型から「何々を創ろう」という創造型に変えていくこと、の3点である。
 ところで、筆者は本書の随所で鋭い社会批判をしている。例えば、最近、日本の大学の意義が問われているが、筆者は学問の意義について問う。「景観や環境あるいは自然といった言葉は、かつて景観学、環境学、生態学、あるいは都市学などで盛んに使われた。それは開発に対してブレーキをかける言葉として進歩的で格好よく、美しかったのである。しかし、実際にはこれらの言葉は『理念』だけが先行し、それを内実化する理論、方法、制度化などはほとんどうまくいかなかった。そのため開発に対してはほとんど無力であった。」環境保全分野に携わる者にとってはたいへん耳の痛い指摘だが、共感できる。異分野間の境界領域や創造・実現のための学問が重要な所以である。
 本書は、まちづくりの本質、しかし今の日本には不足している住民主体の都市形成の重要性を突いており、環境保全、ランドスケープ計画、環境アセスメント、造園、建築、都市計画、などに従事する実務者や研究者はもちろんのこと、これからこれらの分野を勉強しようとしている学生諸氏にとっても、都市の美を創造するためのソフトウェアとしての処方箋として示唆に富んだものとなるであろう。
 ぜひ、一読をお薦めしたい。

(武蔵工業大学環境情報学部環境情報学科助教授/田中 章)

『建築とまちづくり』(新建築家技術者集団発行) 2002.8
 本書は、「美しい都市」のいくつかをレポートするとともにその「美しさ」について検討し、都市における美とはなにかを考えたものである。その主張は、国民が美しい都市に住む権利を憲法に明記し、美しい都市を(外から評論するのではなく)主体的に創り出していこうというところにある。そしてアレクサンダーのパタンランゲージを援用して、その「美」は客観的に存在するという。
 個人的には都市における美の基準は「歴史性」と「自然さ」にあると思う。本書に「初めて行った場所でも、近年になってできた都市でも、懐かしさを感じることがある」とあるが、それこそが「歴史性」と「自然さ」ではないか。「歴史性」とは「生きられた時間」を感じさせること、「自然さ」とは人間生活の必然性(とそれを具現化した技術)の表れのことだ。それらは「つくりもの」のような薄っぺらさではない、繊細でありながら野太くもある「平凡な」美しさだろう。
 また、緩やかに統一された風情と、控えめではあるが絶妙な破調のバランスも関係していよう。無機的でスタイリッシュな空間は実にクールでカッコよく、それも一つの美であるには違いないが、すべてがそれらで埋め尽くされた町には生活する落ち着きはない。それは一つの絶妙な破調として(例えば非日常や劇的な転換点として)存在してこそ意義がある。
 ヒューマンスケールな感覚も重要だろう。グランドレベルが立体化された街区(例えば西新宿)は目的のところへの行き方すらわかりにくい。参加が自覚できるコミュニティが成り立っていない都市を市民は「われわれの町」とは考えない。適正規模論はもっと深められる必要がある。
 読後に上記のようなことをあれこれと考えた。本書の叙述には若干整理されていない部分も感じられなくもない(例えば、美しい都市として取り上げられたアメリカ・コロンバス市は「表面的な美」、群馬県新治村は「張りぼてくさい」という記述がある)が、それは都市の美についての議論が始まったばかりであると考えれば、そう大きな問題ではない。この本によって多くの人が美しい都市とは何かを考えることが、そこに住む「権利」を確立するまずは第一歩であり、その役割を十分に果たし得る書であることは間違いない。
(早)
『チルチンびと』(風土社) vol.21
 「美」とは抽象的なもので、定義するのは難しい。だがしかし多くの人が美しいと感じる芸術や都市は確かに存在する。美しい都市に住むことを阻害するのが法律であるなら、それを変える必要がある・・こんな法律家が日本にいて、活動してくれているのは実に心強い。法律家である著者は神奈川県真鶴町まちづくり条例、「美の条例」の策定にも寄与し、各地で公共事業にかかわる住民運動に参加している。本書では国内外の美しい都市(鞆の浦、新治村、コナ、コロンバス、エディンバラ)の仕組みや、そこが抱える問題を建築的、法律的、人の意識などの面から具体的に検証していく。

『地方自治職員研修』(公職研) 2002.5
 無関心・無反応が横行する現代日本で究極の危機とされる「憲法改正」と「首都移転」。筆者はこれに抗する形で「美しい都市をつくる権利」を憲法に盛り込むことを提唱する。「美」は多様でありながらも客観性を持つ。現に美しい都市は存在し、それをつくり住まうことを憲法に規定している国も少なくない。英エディンバラ、広島鞆の浦など内外の美しい都市を検証し、そうした都市を「つくる」という能動的な権利を最高規範に謳おうとする、本書のメッセージは予定される連作に引き継がれる。

『新建築住宅特集』(叶V建築社) 2002.5
 著者は、不当な都市計画や建築に対し、一貫して市民の立場から申し立てを行う弁護士として知られている。その到達点として本書では、21世紀の日本において、「美しい都市に住む権利」を定めようと説く。公共事業主導型の国づくりが行き詰まった現在、市民が自覚的にまちづくりに参加し、自信と安心を取り戻すためには、美の追求という基本的価値観を共有する必要があるという主張は説得力がある。ハワイのコナ、広島県鞆の浦、アメリカのコロンバス、群馬県新治村、イギリスのエディンバラ、東京都国立市。本書が検証する都市もさまざまな問題を抱え、その解決を模索している。まちづくりの具体的なヴィジョンが凝縮された一冊。



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