神山進化論
人口減少を可能性に変えるまちづくり



おわりに ──仮説をひっくり返される快感

 やはり取材は面白い。神山町の取材を通して、あらためてかみしめた。
 取材とは、前もって資料に目を通し、なんらかの仮説を立て、それを現場でぶつける作業の繰り返しだ。仮説がその通りのこともあるが、ほとんどの場合、違っている。違った方が面白い。仮説がそのままなら、現場に行く意味もない。違っているとわかってから本当の取材が始まる。
 神山町の取材では、立てていた仮説がことごとくひっくり返された。何が違っていたのか。順に書いてみる。

〈仮説その1〉NPO代表の強烈なリーダーシップで今の神山がある
人口5300人ほどの過疎の町に、なぜたくさんの移住者やIT企業が集まってくるのか。地域再生のヒントを求めて神山町に入る前、NPO法人グリーンバレーが移住者受け入れやIT企業誘致を担っていて、その中心人物が大南信也さんだということは知っていた。よくありがちな、強烈なリーダーシップで組織やまちづくりを引っ張るイメージを想定していた。
 しかし、違っていた。
 確かに大南さんは発想が豊かで弁が立ち、人が自然に周りに集まってくる人物だ。だが、グリーンバレーは、決して大南さんとその他大勢の組織ではない。世話好きな岩丸潔さん、縁の下の力持ちの佐藤英雄さん、森昌槻さんたちがいて、それぞれが持ち味を活かして活動する、自由でフラットな組織だった。
 もし強烈なリーダーシップで引っ張る組織なら、今の神山はない。サテライトオフィスを構えたプラットイーズ取締役会長の隅田徹さんは、神山を選んだ決め手は「緩さ」だと言った。「ヨソ者をオープンに受け入れ、多様性を認める。自分の考えを押しつけない。その緩さ加減が最高だと思う」と。
 ヨソ者も自由に意見が言えるし、それを受け入れる柔軟さもある。グリーンバレーが醸しだす自由でフラットな雰囲気にひかれて移住者や企業が集まり、その多様さがまた人を集めているのだ。

〈仮説その2〉緻密な計算があったから成功した
 移住者呼び込みやIT企業誘致も、緻ち 密みつな計画があってのことだろうと思ったが、これも違っていた。
 移住者が来るようになったのは、「アーティスト・イン・レジデンス」で招いた国内外の芸術家が神山を気に入って、住みつくようになったのがきっかけだ。関係者の誰もそんなことは想定していなかった。
 手に職を持つ人に来てもらう「ワーク・イン・レジデンス」が始まったのも、たまたまウェブサイトづくりを依頼した西村佳哲さんの「町に仕事がないなら手に職がある人に来てもらって起業してもらえばいい」というアドバイスがあったからだ。
 さらにIT企業誘致は、もっと偶然だ。第一号のサテライトオフィスを構えたSansan社長の寺田親弘さんが神山にやって来たとき、大南さんは「サテライトオフィス」という言葉すら知らなかった。その後は確かに「神山バレー・サテライトオフィス・コンプレックス」をつくるなどして誘致に力を入れたが、始まりは鴨がネギをしょってきた、という感じだったのだ。
 では、なぜ神山に移住者やIT企業の進出が相次ぐのか。大南さんは「結果として」という言葉をよく使う。「いろいろな人との出会いがあって、結果としてこうなったとしか言いようがない」と。だから大南さんは「まちづくり」という言葉にも違和感があると言う。
 「まちづくりというと、はじめに計画があって、それに基づいて進めてきたイメージやけど、今、神山で起きているさまざまな動きは、土壌をつくったら『生えてきた』という感じやな」と言うのだ。
 それでは、偶然の幸運が重なっただけなのか、といえば、「それは違う」とSansanの寺田さんは言った。「僕が行かなくても早晩、神山にはほかの企業が入ったと思います。それは確信があります。偶然だけど必然なんです」。
 絶妙のタイミングで必要とされる人が現れる偶然を引き込む力。それは、隅田さんの言う「緩さ」だったり、それを育む「土壌」だったり、人が集まったことで生まれた「多様性」だったりするのだろう。

〈仮説その3〉神山のまちづくりも旬を過ぎつつある
 移住者が増え、IT企業のサテライトオフィスが相次いで進出した神山町は、地方創生のモデルとして知られている。マスコミにもよく登場する。しかし、グリーンバレーの主要メンバーも60代に入っている。旬は過ぎつつあるのではないか、と私は取材に入る前に思っていた。
 しかし、まったく違っていた。ここ数年でグリーンバレー頼りだった神山のまちづくりは様相を一変させ、世代交代も進んでいたのだ。
 その動きを加速させたのが、2015年の地方創生の総合戦略づくりだった。「役場と民間、もとからの住民と移住者が入り混じり、熱を持つ『るつぼ』をつくる」ことを狙った戦略づくりの議論の場で、さまざまな地域再生のプロジェクトが生まれていた。
 仮説をひっくり返される快感を一番感じたのが「その3」だ。
 まちづくりで知られたほかの地域と神山の一番の違いは、ここにある。戦略づくりや、それから生まれたプロジェクトを取材するのがとにかく面白く、気づきや学ぶことが多かった。原稿を読み返してみると、いささか感情過多になっているきらいがあると思う。しかし、地方を再生させるヒントが詰まっていると思う。

 私が神山町の取材を始めたのは2016年春だった。それから2年半の歳月が過ぎた。この間には多くの変化もあった。神山つなぐ公社スタッフの友川綾子さんは2017年5月末に公社を辞め、フリーのライター・編集者に戻り、首都圏で活躍している。
 つなぐ公社の理事の顔ぶれも変わった。一番は大南さんが理事を外れたことだろう。大南さんは設立以来務めていたグリーンバレーの理事長も降り、理事になった。後任の理事長には、粟カフェの中山竜二さんが就いた。
 神山メイカースペースの一員だった寺田天志さんは結婚を機に愛媛県に転居した。
 神山町に興味を持つ人の理由はさまざまだろう。
 地方に移住したいと漠然と思っている人。IT企業の新しい働き方に興味がある人。地方の再生やまちづくりのヒントを探している人……。
 神山町の過去から2018年の現在までの軌跡を辿ることで、それぞれのニーズに応える一冊になっていると思う。
 取材では本当にたくさんの人にお世話になった。最も取材回数が多かったのは大南さんだ。全国を飛び回る講演や仕事で多忙ななか、嫌な顔ひとつせず、丁寧に取材に応じてくれた。
 後半部分では西村佳哲さんに随分とお世話になった。もとより地域に関わるというのは、非常に繊細な営みだ。移り住んできた人であれ、もとから暮らしてきた人であれ、ことさら自分にスポットをあててほしくない、と言う人は多かったが、西村さんもその1人だった。それでも神山の実際のところを書いてほしいと何度も取材に時間を割いていただいた。城西高校神山分校の阿部隆教頭にもいろいろとアドバイスをいただいた。阿部さんも2018年春に異動した。
 挙げだせばきりがないが、みなさんに感謝を申し上げたい。この本の写真提供でも協力いただいた。そして申し訳なく思っているのは、取材させていただきながら書くことが叶わなかった人たちがたくさんいることだ。お世話になりながら申し訳ありません。また、神山に行った際に、個別に申し上げます。
 この本は、2016年10月3日から12月16日まで、朝日新聞大阪本社発行の夕刊に掲載された52回の連載「神山町の挑戦」を下地に、追加取材して全文をあらためて書き下ろした。学芸出版社の宮本裕美さんから「出版しませんか」と電話をいただいたのは連載が始まってすぐだった。
 新聞連載が終わっても、本の原稿が進まない私を励ましつづけ、出版までこぎつけさせてくれた。出版のきっかけを与えていただいたことと合わせ、お礼を申し上げます。
 深夜や休日、部屋にこもっての執筆を支え、いつも原稿の最初の読者として助言してくれた妻・れい子にも感謝したい。
 本の出版はこれで3冊目になる。『今、地方で何が起こっているのか』(共著、公人の友社)では、財政破綻したばかりの北海道夕張市や、「限界集落」の言葉が生まれた高知県の過疎集落などをルポした。『釜ケ崎有情』(講談社)では、日本最大の日雇い労働者の街、大阪・釜ケ崎で生きる人たちの話を書いた。いずれも厳しい状況のなか、希望を求め続ける人たちの姿を追った。
 神山町も同じだ。
 四国の山奥にある「消滅可能性都市」のレッテルを貼られた町で 、自分たちの町の未来を変え始めた人たちの思いが、あなたに届きますように。そう思ってやまない。

2018年夏
神田 誠司