つくること、つくらないこと
町を面白くする11人の会話

まえがき by 長谷川浩己

 誰でもそうだったと思うが、小さい頃から宇宙の果てとか、世界はどんな風に出来ているのか、とか、そんなことをよく想像してはクラクラしている子どもだった。普通にそんなこと忘れていたのだが、大学に入ってから初めて友人を通してランドスケープ・アーキテクチュアという分野に巡り会う。俄然目覚めてしまって大学を卒業してから改めてその世界に踏み込むことになった。急に子ども時代の感覚がよみがえったのかもしれない。この仕事は何かしらリアルな世界の成り立ちと接点を持っている、そういう直感が働いたのだろうかと今にして思う。
 しかし勉強を初めてすぐにその対象の大きさ、複雑さ、途方のなさに面食らった。風景とはさまざまな関係がその都度カタチとして顕れてくる全体像だとすると、デザイナーって一体何をすればよいのだろうか? 大体デザインするも何も、風景は既にそこにあるじゃないか。わざわざ留学までして向こうの設計事務所で働き始めてからも、ずっとそんなことを考え続けていた。その後帰国し、一つずつのプロジェクトを通して、そしてまだ考えている。
 山崎亮さんと会ったのは本当にひょんなことがきっかけだった。その時から「もう一度この人とちゃんと話をしたい。」という思いが僕の中にくすぶっていたのだが、それは一体何だったんだろうか。一応僕がつくる人、彼がつくらない人、というスタンスをあえて強調することで、(ランドスケープ)デザインという仕事の振れ幅と射程距離を測ってみようと思ったわけだが、僕が抱えている根本的な問いに彼もまた反応しているのだ、という確信を感じたのかもしれない。
 日々の営みはすでに風景であり、電線が絡まり合う空もまたそのときの技術や切実な思いが生み出した、見るに値する風景である。社会、生態系や地球の営みまで含んだ膨大な関わりから生み出される風景に対して、それをデザインする、ということはなんだか部分が全体をつくろうとしているんじゃないかという違和感、何か不遜な行為をしようとしているという感覚がずっと頭の中から離れなかった。それでもこの仕事から離れようとは思わなかったのは、どこかで「これはとても大事なことだ」という根拠のない確信があったからかもしれない。
 僕はずっとこの違和感と根拠のない確信の間で揺れ動きながら仕事を続けている。山崎さんと一緒にいろんな方々と出会い、一体その問題は解決したのか? 正直に言うと、問いは更に大きくなり、同時に確信もまた大きくなった。言い換えると僕たちが向き合っているものの巨大さ・複雑さがより見えてきたように思うし、同時に今ほどさまざまな関係の取り方が必要とされているときはないんじゃないかとも思う。そう、僕たちができることはおそらく関係の取り方である。ランドスケープデザインは風景をつくることではない。新しい風景が出来るきっかけを提供することだ。
 「つくる」または「つくらない」ということを通して、僕たちみんなとその場所の間に(新しい)関係をつくり出したい。その関係が結果として新しい風景となるのだろう。関係を生み出すそのなにかを、「状況」と呼んでみた。そこに僕と山崎さん、多くのゲストをつなぐ共通項が見えてくる気がする。(風景に対しての)デザインという行為は、何かしら出来事が起きるための状況を用意することではないか、と。ちなみにゲストはそれぞれの方法で状況をつくり出していると僕らが思った方々、またはその様な状況に対して深く思考を巡らせている方々にお願いした。本当にさまざまな可能性やこれからの課題について考えさせていただいたと思う。
 そう思ってもなお、僕自身が今も迷いの中にあることは否定できない。ランドスケープデザインには常に「何もしない、さわらない」というオプションが含まれているし、いろんな方と会うたびにそのやり方の方が効果的なんじゃないかと思ったりもする。ただ、今回はそのやり方の芳醇さに逆に励まされた。この場所に確かに居ると実感できること、この場所で生き生きと暮らすこと、これからの時代、そういうことを実現していくにはもっといろんなやり方も出てくるだろう。しかしなお、「つくる人」としては、あえてカタチの種をまくことでしか生まれ得ない状況もあるのだと信じている。その意味では僕にとっての永遠のライバルは『ドラえもん』に出てくる空き地かもしれない。つくることとつくらないことは、どちらかが大事なのではない。どちらも大事で、どちらもお互いを必要としている。
 そんなわけで、まずはこの本を(特に風景の中で)一所懸命カタチをつくっている人に読んでもらいたいと思っている。結局風景とは、カタチであり、同時に関係である。カタチを触れば必ず関係に響き、関係に関わればそれは必ずカタチに顕れる。その世界は豊かで複雑で、とても魅力的だが、同時にそれに関わることへの畏れもある。それでもなお、カタチを通してより良い関係へたどり着きたい。そのための一つの参考に、この本がなれば幸いだと思う。

まえがき by 山崎亮

 ランドスケープデザインについて5年間学んだ。その後、設計事務所に就職してからの6年間も、「風景をデザインする」とはどういうことかを考えながら仕事を続けた。公園をデザインしたり、街路樹や花壇をデザインしたり、町並みのデザインコードを検討したりした。でも、それが風景をデザインすることになっているようには思えなかった。
 風景は、もっと「なんとなく」出来上がってしまうもののような気がしていた。その地域に暮らす人たちの行動が積み重なって生活が出来上がり、その生活が積み重なって人生が出来上がる。これらが繰り返された結果、なんとなく出来上がってしまうのが風景なのではないか。だとすれば、樹木を植えたり町並みを整えたりしても風景をつくったことにはならない。表面的にまちを緑化したり景観計画をつくったりしても、地域に住む人たちの行動が変わらなければ風景をデザインしたことにはならないだろう。
 人の行動を変えるためには、その人たちの気持ちを変える必要がある。どんな町で生活したいのか。何を大切にしたいのか。何が楽しいと思うのか。そういうことをみんなで話し合いながら、自分たちの町を自分たちでマネジメントしようという気持ちを高める。機運を高める。そこから風景を変えていくという方法があるんじゃないか。
 そう、ランドスケープデザインのためにはコミュニティデザインが必要だ。そんなことを考えて設計事務所を辞めた。 ランドスケープデザイン分野の諸先輩方はいろいろ心配してくれた。「そんな仕事で食っていけるのか」「ものづくりの力を信じていないのか」「デザインから逃げるのか」。今もうまく説明できていないが、当時もやはり自分がやりたいことをうまく説明できなかった。だから会う人のほとんどから上記のようなアドバイスや指摘を受けた。
 ランドスケープアーキテクトの長谷川浩己さんと会うことになったのはそんな時期だった。また同じような話になるのかな、と思っていたら、長谷川さんは開口一番「僕もまったく同じ気持ちなんだよね」と言った。風景をデザインするという仕事に対する違和感や悩みがずっと続いているという。すでにたくさんの空間をデザインしてきた長谷川さんから、そんな話を聞くことになるとは思ってもみなかった。と同時に、なんて素直な人なんだろうと思った。この人となら、モノをつくることの可能性と限界、そしてコミュニティが活動することの可能性と限界についていろいろ話ができそうだと感じた。
 お互いが悩んでいるのだから、誰か指南役がいたほうがいいだろうということで、毎回ひとりゲストを迎えて鼎談することになった。さまざまな人とお話するなかで、モノをつくらずに状況をつくりだす方法の可能性と課題を見つけ出すことができた。また、モノをつくる人とコラボレーションする際に心がけることを知ることができた。
 この鼎談で見つけたことのいくつかは、現実のプロジェクトに活かされている。これからコミュニティデザインに取り組もうと思っている人はもちろん、空間をデザインする人も本書を読んで、ハードとソフトのバランスあるデザインについて思いを巡らせてもらいたい。
 長谷川さんが挙げた永遠のライバル、「ドラえもんの空き地」。コミュニティデザインの立場から考えると、ガキ大将を中心とした子どものコミュニティをどう再生するかが課題である。また、ほとんどの家庭にテレビゲームがある時代に子どもたちが空き地に集合するモチベーションをどう生み出すのかも課題である。金持ちのスネ夫は自宅に数十台のゲームを持っていたはずだ。なのに、ジャイアンものび太も、スネ夫の家ではなく空き地に集合する。きっとスネ夫のママは「お外で遊ぶべきザマス」と息子たちを邸宅から追い出していたのだろう。
 そうした行動や生活や人間関係が存在したからこそ、空き地にあの状況が生まれたわけだし、あの風景が生まれたわけだ。
 現代のランドスケープデザイナーが空き地に絶妙な配置で土管を三本置いただけで、あの風景を生み出そうとするのはナイーブ過ぎるというものだ。そこに、風景をつくろうとするときの「空間とコミュニティ」「ハードとソフト」のバランスを考える重要なキーワードが隠されている。