生きている文化遺産と観光
住民によるリビングヘリテージの継承
おわりに
「私たちが、私たちの文化を守り伝えていくことの意味とは何であるのか?」
これは本書の冒頭において、筆者が読者に投げ掛けた問いであった。
いかがであろう。これはそれこそ、経済活動の糧と見る向きもあろうし、人類史上の資料的価値を保持することであるとも言える。あるいは人の郷愁に起因する叙情性に向かうものかもしれない。いずれにしても見解は複数あろうし、そのいずれもが一理を持ち得ていると思われる。
その上で、この問いに対する筆者の私見を述べるならば、「我が他との差異を維持すること」にあるというに尽きる。もちろん、これにはご異論のある方も居られよう。しかしこの私見は、非常に個人的なれど浅はかならず、以下に述べる筆者の見解に基づいている。
言うまでもなく、地球上には国や地域、あるいはそこに住まう人々の習俗や気候風土において様々な差異があり、多種多様な文化が存在する。したがって、文化を楽しむこととは、文化の多様性を楽しみ、かつ、その差異を認め合うことにも等しいとは言えまいか。さらに言えば、こうした視点から行う観光は、文化を楽しむために最大の、かつ最良の方法である。
いささか極論めくが、もし世界の人と地域が均質化されてしまったならば、どうであろう。本書で述べてきた様々な事象をとりまく問題以前に、これほどつまらない世の中もないのではなかろうか。どこへ行っても同じなのであれば、当然、観光の必要性もないし、こうなれば、もはや文化は死に絶えたとさえ言ってよい。
けれども今、世界の人と地域は均質化する方向へ向かっているように思えてならない。これは何も、観光に関連する社会システムにおいてのみに言えることではないのだけれど、例えば、マスツーリズムに見られるような観光のスタイルは、観光対象地域における住民生活の多様性に対する理解を失い、世界的規模によるグローバル化の進行とともに、各地に特有な文化的差異さえも均質化させてしまっているように思えるのである。
もう一度言うが、文化の差異を楽しめない、そんな世の中などつまらない。だから私たちは、私たちの文化を守り伝えていくこと、すなわち「我が他との差異を維持すること」を行わなくてはならない。リビングヘリテージを保護することの真意は、「我々が生きる上で我々自らが様々な文化的差異を楽しめること」にあると、少なくとも筆者はそう考えている。
本書の各著者において、本書に執筆をして頂くことは非常に困難なことであったに違いない。それは、これまでの地域振興を扱った一般書籍に鑑みて、本書は一種のタブー的領域にまで足を踏み入れていることにある。研究論文でならともかく、一般書籍において、各地域の実名を挙げた上で、当地の地域振興におけるネガティブな領域についてまで言及したものは、それほど多くはないはずであるからだ。これをさらに言えば、各著者のみならず、各地域の方々や出版をご承諾頂いた滑w芸出版社においても同様である。
しかし、ここにこうして本書が上梓されたのは、各者それぞれにおいて、筆者の意向にご賛同下さり、また、様々なご好意とご努力をも頂いた結果にほかならない。それだけに、本書は今日の社会生活を考える上で、実に重要な意味を担う書籍になり得たものと確信している。
以上からまずは、それぞれの報告に関連する地域の方々へ、心からお礼を申し上げる次第である。また、滑w芸出版社の京極迪宏社長をはじめ、前田裕資さん、知念靖広さん、中木保代さんにも、心からお礼を申し上げたい。特に中木さんとは、幾度となく議論を重ね、貴重なアドヴァイスを頂いた。これは筆者の今後における活動の礎ともなり得るものであった。
本書が各地の文化遺産保護と地域振興における議論の基になるとともに、当地の方々の生活に対してお役に立つことを願うものであるが、しかしこれは本来、すべては当事者である各地の方々に委ねられるべきものであろう。結語になって無責任なようでもあるが、しかし現に筆者ら研究者が各地のためにできることなど高が知れている。したがって、ひとまずはここで筆を置くことにさせて頂こうと思うのだ。
藤木庸介
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