社宅街 企業が育んだ住宅地


はじめに

 近代日本において企業が開発した社宅街は、業種、年代、運営方式による違いはあるものの、近代産業黎明期から、住宅ストックの乏しい地方において果たした役割は大きく、福利施設*1や都市基盤をともなった開発は当該地方の都市化を促した。そこには「近代」という均質化された都市形成の縮図を垣間みることができる。一方で、日本の近代化を支えた人々の生活をも含んだ歴史遺産として位置づけることも可能である。
 本書で対象とする社宅街はすべて第二次産業*2、すなわち鉱工業系企業の管理・経営によるものである。近代日本の鉱工業は、一九世紀の官営工場・鉱山を主体とする繊維業(製糸、紡績、織物)と鉱業(炭鉱と金属鉱山ならびに製錬)に始まり、重工業(機械、造船、鉄鋼)の時代を経て、一九二〇年代には大規模化した化学工業へとシフトしていく。第一次産業の生産品を原材料とし、植民地を含め大きな展開を見せた製糖業と製紙業もまた、近代日本の主要工業である。その担い手の多くは、三井、三菱、住友、古河などの財閥であり、工場あるいは坑口の周囲に社宅を含む福利施設を建設し、包括的な都市をつくりあげた。

  これまで第二次産業の遺構は、労働争議や労働災害、公害問題の象徴として、どちらかといえば「負の遺産」と捉えられる傾向にあり、正当な歴史的評価を受けることが少なかった。しかし、近年の近代化遺産に対する意識の高まりとともに、第二次産業の遺構に対する認識が変化しつつある。その一例が、二〇〇七年の石見銀山の世界遺産登録であり、二〇〇八年一二月までに「富岡製糸場と絹産業遺産群」(図1)、「九州・山口の近代化産業遺産群」、「金と銀の島、佐渡」が世界遺産暫定リストに名を連ねている。この他にも北海道空知地域の炭鉱施設、足尾銅山、別子銅山でも福利施設を含んだ世界遺産登録への活動が見られる。文化庁の文化財保護行政では一九九三年以降「近代化遺産」を重要文化財建造物の種別に加え、経済産業省でも二〇〇七年に三三件の「近代化産業遺産」を認定した。

  世界に目を向けると、南米チリのシーウェル鉱山町や、イギリスのニューラナーク(綿紡績工場とその労働者用住宅、図2)とソルティア(モデル・ヴィレッジ、図3)、イタリアのクレスピダッダ(綿紡績工場と労働者のための理想郷)などが、カンパニー・タウン(Company Town)、あるいはインダストリアル・ヴィレッジ(industrial village)としての価値を評価され、世界遺産に登録されている。このカンパニー・タウンやインダストリアル・ヴィレッジは、近代の企業経営都市に対する高い認識と横断的な研究蓄積を基に、開発手法、開発形態などから明確に分類されたものである。しかしながら、日本では企業が開発した都市を包括する概念自体が希薄であり、かつ、これまで行われてきた社宅や社宅街に関する研究では、資料的限界から個別の事例報告の域を脱することができず、何らかの指標をもって整理分類するには至っていない。

  本書の第T部では、鉱工業系企業の社宅を含めた福利施策の展開を辿りつつ、「社宅」および「社宅街」を定義するとともに、産業分野ごとに社宅街を読み解く俯瞰的な視点を提示する。第U部では、積極的かつ意図的な社宅街経営を読み取ることのできる日本国内および植民統治時代の外地の一二事例を@企業の事業展開と社宅を含む福利施設充足の経緯、A市街地(社宅街)の形成過程、B建設された社宅を含む福利施設の建築的特徴、C現況の四点に着目して報告する。大都市とは異なる、地方都市における「社宅街」というシステム化された都市形成プロセスの理解につながることを期待したい。
  
 
*1 現在では「福利厚生施設」という言葉が一般的であるが、日本近代期に「福利厚生」の語は各種史料にはなく、「福利施設」の表現のみ確認できる。したがって、本書では「福利施設」のみを用いる。
*2 コーリン・クラークによる産業分類では、鉱業は採取業として第一次産業に分類されるが、日本標準産業分類では第二次産業に分類される。本書では後者に従う。