観光学への扉


序 章

観光学の新たな地平をめざして

1 「観光学」と「観光業学」
  わが国には観光業学は存在しても、観光学は存在しない。
  こんな言葉を何度か聞いたことがある。
  あるいは、こういう指摘もある。わが国において、観光学の構築のため永年にわたって尽力し、多様な著作を著し続けている溝尾良隆によるものである。
  「(わが国の)観光学にも課題は山積みしている。観光学を研究する学者が少ないことが第一。そのために観光が事業として注目されてくると、他分野の専門家・コンサルタントが跋扈(ばっこ)するのも、そのあらわれである。そもそも観光学という学問があるのか、ともいわれている(注1)。」
  一方で、とりわけ2003年1月の国会施政方針演説における小泉純一郎総理大臣(当時)の「観光立国宣言」以降、ブームともいえる観光振興への志向が全国の自治体を席巻した。ここ数年の動きとしては、大学をはじめとする高等教育機関での観光関係の学部・学科の新設が活発化している。早くに、社会学部のなかに観光学科を開設していた立教大学(1967年、後に学部に昇格)以外、ほとんど皆無ともいえた状況が、2000年前後から大きく動き始め、今では北海道から沖縄にいたるまで全国に点在している。国立大学法人においては、「観光立国宣言」を受けた政府の政策下、観光関連の学部学科の新設に際しては、運営交付金を増額して付与されることになり、2005年度より山口大学・琉球大学、2007年度には和歌山大学に開設され、さらに北海道大学では大学院のなかに研究科が独立した形で設置された。そして何よりも、2008年10月に国土交通省の外局として観光庁が設置された。
  したがって、もはや、上に紹介した言葉や指摘(「観光学は存在しない」)は、甘受できない状況にあるといえるだろう。
  そもそもわが国において、「観光が事業として注目されてくる」ようになったのは、1960年代前半のことではなかっただろうか。政策として展開された高度経済成長がスタートしたのが1961年のことであり、その後、観光に関する基本政策を定めた「観光基本法」(注2)の制定(63年)、観光目的の海外渡航の自由化(64年)、名神高速道路(64年に愛知県一宮と西宮間の96%が開通)と、東海道新幹線・東京と新大阪間の開通(64年)、国鉄による高速バス名神高速線の運行開始(64年)、アジアで最初の東京オリンピックの開催(64年)など、そのお膳立てともいえる状況が、この時期に集中して整っている。大衆観光、マスツーリズムが確立して、観光の王道を謳歌した時代でもあった。
  こうした流れのなかで、「観光」を明確に商品化する産業分野が、成長していくことになったのであり、洋酒メーカーが「トリスを飲んでハワイに行こう!」というキャッチコピーの下、販売促進のための景品に海外旅行を設定するなど、観光を活用する異業種の登場を生んだのも、この時代の一つの風景だった。
  そして、高度経済成長・国民所得倍増計画の恩恵によって物質的に豊かになり、余暇時間が増加しつつあった消費者(観光の需要者)の登場に対して、安価で大量に生産される観光商品を販売する観光業者(観光の供給者側の一つ)が存在することで、このシステムと風景は成り立っていたのであるということを、確認しておかなければならないだろう。
  「観光学不在(観光業学は存在しても…)」という状況がわが国に本当にあるとしたら…換言すると、観光といえばその経済的側面(経済的波及効果)を過剰なまでに重視する現実…、その原因はこの時代の体験が、すなわち高度経済成長のなかで位置づけられたマス化された観光の経験から、「観光は儲かるものだ」とか「観光は儲けなければ意味がない」といった価値観によって、「観光の本義」(注3)が疎外されてしまった結果、その誤った価値観が、いわば一種の心的外傷(トラウマ)として存在し続けているからではないだろうか。
  もちろんマスツーリズムに対する批判的言説や運動・活動は、この時期からなかったわけではない。むしろ、ほぼ軌を一にするようにして生じたといってもいいのかもしれない。
  すでに1960年代後半から70年代にかけて、町並みや景観の保護、保全や保存修景に関わる運動・活動が、妻籠宿を嚆矢としながら、小樽運河、由布院、白川郷、近江八幡、足助などで相次いで起こってきた。
  大量生産・大量消費(大量廃棄)、外部資本、スクラップ&ビルドといった時代の文脈とは一線を画する、オルターナティブな社会とくらしを求める内発的な動きであったといえるだろう(注4)。ただこうした運動の担い手の多くは、地域社会においては、観光の供給者側のひとりであり、あるいは結果として観光の供給者となったものの、「観光」という言葉そのものに無意識のうちに拒絶反応を示したり、現実の需要者の観光行動には懐疑的である人が少なくなかったのではないかと思われる。
  ここにおいても、もう一つの心的外傷(トラウマ)が存在するのだろう。すなわち、「観光とは、地域社会を混乱させ、観光公害をまき散らすものだ」とか「観光とは、観光に携わる者や外部業者のみが、良い思いをするだけだ」といった具合に。
  それでは本書の共著者である私たちのような、「学」の立場に身を置いて「観光」に関わるものたちの責務は一体どこにあるのだろうか。そしておそらくその責務とは、これから観光を学ぼうとする人たちはもちろんのこと、一定、今までに観光について学んできた経験をもつ人たち、あるいは観光の実務に携わっている人々のみならず、ひいては広く地域社会一般に課せられた責務と通底する部分が少なくないのではないだろうか。
  例えば隣接科学の一つともいえる「経営学」においては、様々な研究分野が知を共有しながら、一つの学問領域を構成している。一般的には、企業の経済(営)活動に関わる実務的・実際的な学問と思われているかもしれないが、倫理学や心理学、歴史学や文化論など、学際的な知見が不可欠なものとなっているのである。それが狭義の「ビジネス論」ではなく、「経営学」が「学」たり得るゆえんなのではないだろうか。換言すれば、そういう要素が「学」の矜持(きょうじ)としてあるがゆえに、浅薄な「ビジネス論」としてではなく、大学で学び研究し得る「経営学」として確立されたに違いない。
  上述したような私たちの責務とは、狭義の「観光業学」を安易に切り捨てるのではなく、むしろ一国における重要な産業分野の一つとして、観光業にも十分な注意と関心を払いながら、浅薄な「ビジネス論」に堕さない「観光学」の構築のための一助にしなければならないということである。

2 数字を追う観光、語り継がれる観光
  持続可能な(地域)観光(サステーナブルツーリズム)(注5)の実現、とは(地域)社会の実践的側面のみならず、観光学においても希求しなければならない大きな課題である。ここで留意すべきは、観光において希求される持続可能性は、地球環境だけではなく地域社会の持続可能性と両立してこそ意味があり、これを達成するための制度設計が求められるという点である。したがってサステーナブルとは、狭義の地域環境(自然環境)に対してのみではなく、社会経済的環境、歴史・文化的環境、人的環境などにも広く目配りがなされなければならない。持続可能なコミュニティを構築するということは、安心して何代も先の子孫にまで手渡していくことができる郷土づくりを行うことであり、サステーナブルツーリズムとは観光を媒介としてそれを実現することであると定義したい。
  そこで通俗的な比喩となるが、観光客数や宿泊客数、関連売上高の向上のような集客による産業振興を優先する「数字を追う観光」(記録としての観光)と、地域の暮らしへの共感や感動、人々の心のふれあいを通したまちづくりを尊重する「語り継がれる観光」(記憶としての観光)という二つの概念を提示してみよう。両者を比較検討することは、観光学を再考していくための手掛かりになるのではないだろうか。
  結論から先にいおう。少なくとも「記録としての観光」と「記憶としての観光」という対照化した二つの要素に対しての調和のある思考こそが、持続可能な観光の実現のために、そして観光学の新たな展開のために必要であるということだ。
  「数字を追う観光」を積極的に求めるのは、主に観光に業という形で携わる供給者サイドである。そして例えば年間入込観光客数といった「数字(記録)」の成果が、一定のイメージを構築し、イメージがイメージを増幅させていくことで「観光都市」という呼称を一つのまちに対して付与していく。まさに、「観光業学」が跋扈する部分がここにあるのかもしれない。
  一方で観光に「記憶」を求めるのは、対比的にいえば主に需用者サイドであろう。「ファスト風土」(注6)化され、均質化された郊外のショッピングセンターでは、そのまち固有の記憶は旅行者には残りにくい。「都市観光」とはオルターナティブな観光概念であり、一つのトポス(注7)としての都市の内部において、スロウな時間の流れのなかで蓄積され、見出されたそのまち固有の有形・無形の文化が光として確認されるものである。それであるがゆえに、そのまちは旅行者に「記憶」され、再訪者(リピーター)を創出していく。
  ある企業によって創り出されたテーマパークなどの集客施設は、いわゆる四半期の決算サイクルのような短期的な視点から「記録」を追う。そしてその「記録」が費用対効果に見合わないとき、多くの場合その施設はすぐに撤退し、ファストなまでに消滅する。来訪者の「記憶」に、この集客施設が残らないとはいわない。だが、それは文化が蓄積された場所としての都市の記憶ではない。恋人や家族とほんの一時を消費した、刹那的な時間の記憶に過ぎず、意味づけられた場所の記憶にはなりにくいのではないだろうか。
  直前で、「記憶」を求めるのは、(供給者サイドと)対比的にいえば主に需用者サイド、という表現をあえて採った。しかし実は、観光業者ではない供給者サイド(平たくいえば、地域で普通に暮らす人々)においては、誇りをもって地域で暮らしていくためにも、公文書や文字には残らない暗黙知としてのそれを含めて、「記憶」が重要であるということは確認しておきたい。そのような「記憶」は観光の実践以前に、持続可能な地域の実現に避けて通ることができないものである。
  観光というコンセプトを、持続可能なものにするために、「記録」を求めることは不要というつもりはない。経済効果が期待されないとき、人々のモチベーションが低下することはまぎれもない事実である。観光という場面においてもそれは例外ではない。
  しかし観光という舞台では、本来地域の人々の「記憶」(語り継がれるもの、あるいはその価値があるもの)があってこそ、「記録」(持続的に来訪者を獲得すること)も生まれるものであるはずだ。地域の暮らしを本義とする誠実なまちづくりの結果として、人は惹かれ来訪者となり、やがて再訪者となるのである(注8)。そういう視点から、地域文化を創造する孵卵器としての観光(関連)産業を育成していく姿勢が必要なのである。ひたすら「記録」だけを求め、それを推奨すれば、冒頭に指摘したように「観光業学」に終わってしまうであろう。たとえ遠まわりのように見えても、人々の「記憶」に立脚した地域文化の創造こそ、観光の本質であり、薄っぺらなビジネス論で語ることから、観光を解放することが「観光学」を創りあげる要諦である。
  「記録」(観光都市の形成、狭義の供給サイド重視の観光論、マスツーリズム、ファスト風土…)と「記憶」(文化的創造環境の象徴としての都市観光やムラ観光の育成、需要サイドと、地域住民という広義の供給サイドも重視した観光論、オルターナティブツーリズム、スロウ風土…)を止揚するところに新しい「観光学」が生まれるに違いない。
  いみじくも、須藤廣は次のようにいう。「「観光カリスマ」は「供給サイド」にはいるが「需要サイド」にはいない。…中略…「おかげ参り」の扇動者のような、旅人のカリスマは現代では存在しない」(注9)。
  しかし、「観光学」の新たな構築の試みは、同時に「需要サイド」に「旅人のカリスマ」をつくりだすための試みともいえるのではないだろうか。そしてさらに付記するならば、「供給サイド」に求められる「カリスマ」性とは、目先の「記録」達成能力ではなく、真の「地域づくり」と「人づくり」にこそ発揮されるべきであるということを、確認しなければならないだろう。

3 一人ひとりが観光振興の担い手
  狭義のビジネス論としての「観光業学」にとらわれず、「記録」と「記憶」を止揚し、総合的な「観光学」を確立することが求められていることはすでに述べた。ただ、その「観光学」の試みも、それぞれの地域における実践の裏打ちなしには、きわめて抽象的な理想論にとどまらざるを得ないであろう。
  それでは、「観光学」を真に地域社会に有用な学問とするためには、どういう視点が必要なのだろうか。このことに関連して、「観光の実務に携わっている人々」に焦点をあてながら、少し考えてみたい。
  ここでいう「実務に携わる」ということは、観光業に携わるという狭義の意味合いではなく、行政や市民団体、NPOなどもその担い手となり得るということを含意している。そしてさらには、極論になるといわれるかもしれないが、市民一人ひとりにも地域観光の担い手としての自覚が必要であるということだ。
  例えば、観光振興という行為を、公共政策の一つとして位置づけてみよう。その場合当然のことではあるが、当該地域にとっての(あるいは、一国にとっての)観光をめぐる問題点を発見し、そのための政策課題を設定しなければならない。そのうえで、政策案を作成して、政策決定を行う。そして政策を実施し、その評価を行い、再度政策課題に、あるいは新たに生じた問題に対応して設定されるべき次の政策にフィードバックされなければならない。公共政策といえば、こうした政策の形成過程における一連の主体は、政府や自治体という理解が一般的であろう。
  しかし観光と地域社会に関わるこの一連の過程においては、市民一人ひとりもまた政策の主体であるとの自覚と認識(誤解を恐れずにいえば、「行政任せにはしない」「行政任せにはできない」という意思をもつこと)をもって臨むことが必要なのである。さもなければ、観光を通して地域社会に幸福をもたらすことはできないであろうし、「観光立国の実現」という政策目標も画餅に終わる。
  わかりやすく換言しよう。地域の文化資源を活かしながら観光対象を明確にして、地域観光の真の充実を求める行為を、地域社会の経済と文化の質の向上につなげるためには、観光振興はセクターの垣根を越えて、地域ぐるみで取り組まなければならない課題であり、観光を文化として支える経済は、「第六次産業」(注10)であるという認識が必要なのである。
  地域文化を担う生活者として市民一人ひとりが主体性を発揮することから、持続可能な地域観光は始まる。地域の人々が暮らしへの矜持と共感をもちつつ連携し、多様な協働を展開することで、より善い地域社会をつくっていかなければならない。そうした人々の営為と叡智の積み重ねこそ観光の真意であり、総合的・学際的な知的営為である「観光学」の基調に据えられるべきではないだろうか。

【注】
1)溝尾良隆『観光学―基本と実践』古今書院、2003年、pp.144〜145。
2)その後、2007年に「観光立国推進基本法」に改正。
3)「観光」という概念は、その言葉の成り立ちから考えたときには優れた意味を内包している。すなわちそれは、観光に関わる昨今の著作の多くで必ずといっていいほど紹介されている、中国の古典『易経』の一節、「観国之光」が指し示す意である。あえてここでも解説を付するならば、「地域にとって、掛け替えのない固有の価値をもった文化を光として(供給者側が)示し、(需用者側に)じっくりと観て学んでもらう」ということになるであろう。ただ現実的には、地域社会においてその真意があまねく理解されているわけではないと思われるので、ここにも「観光」という言葉に拒絶反応が生じる余地が一つあるのではないだろうか。
4)「オルターナティブ」という言葉は、2章2節「オルターナティブツーリズムの提唱」のなかでもしばしば現れるように、観光に関わるキーワードの一つであるが、適格な邦訳が難しいともいわれてきた。およそ10年ぶりの改定で話題となった『広辞苑』(第六版、岩波書店、2008年)では、「オルターナティブ」という項で、次のような表記を施している。
  「@代案。代替物。A既存の支配的なものに対する、もう一つのもの。特に、産業社会に対抗する人間と自然との共生型の社会を目ざす生活様式・思想・運動など」。必ずしも共生の対象は自然のみとはいえないが、Aのそれは、的確に表現されており、観光の文脈でも妥当するものである。
5)「持続可能な(地域)観光」(サステーナブルツーリズム)とは、「持続可能な開発」の概念を基底にした観光形態を指す。1992年のリオ地球サミット(国連環境開発会議)を一つの契機にマスツーリズムがもたらした環境問題や社会問題の深刻化に対して、環境保全と観光開発の共生をめざすオルターナティブな考え方が提起されてきた。近年、わが国ではグリーンツーリズムやエコツーリズムが、持続可能な観光の一翼を担うものとして注目されている。
6)「ファスト風土」については、三浦展がその著書『ファスト風土化する日本…郊外化とその病理』(洋泉社、2004年)や編著『脱ファスト風土宣言…商店街を救え!』(洋泉社、2006年)のなかで詳細に論じている。
7)「トポス」とは、もともとアリストテレスの修辞学における鍵概念であったが、様々な学問分野に大きな影響を及ぼしながら拡張してきた概念である。ここでは、現代の現象学的地理学でしばしば言及される「単なる物理的な空間ではなく、人々の記憶が刻まれたかけがえのない場所」として定義しておきたい。
8)この点について私は、拙著『まちづくり・観光と地域文化の創造』(学文社、2005年)のなかで、「観光まちづくり」ではなく「まちづくり観光」という趣旨で詳細に論じた。
9)須藤廣「旅する側からの観光の「近代批判」を考える」 小川伸彦・山泰幸編『現代文化の社会学入門』ミネルヴァ書房、2007年、p.117。
10)2007年11月26日付の朝日新聞の社説は、「希望社会への提言」として「第六次産業」の育成を提言している。いうまでもないが、第一次産業とは、農林水産業、第二次は鉱工業・製造加工業、第三次はサービス・流通・金融業など、であり、これらは掛けても足しても「6」となり、掛け算ならばどれが欠けて「0」になっても結果は「0」となる。包括的、総合的に連携・協働しながら地域がもつ知恵を出し合い、地域の自立や再生を促すことを象徴的に表現しているのが「第六次産業」という言葉であるが、地域観光の振興にこの視点は不可欠なものである。