「地域遺産」みんなと奮戦記


はじめに

 僕が「財団法人日本ナショナルトラスト」(以降、トラスト)で働くようになったのは、大学卒業後、縁あって入所した代議士事務所の先生が、トラストの会長をしていたからである。当時は「財団法人観光資源保護財団」という名称で、毎月送られてくる会報や広報誌が斬新かつ魅力的で、「僕のやりたいことはきっとこの仕事だ!」と勝手に決め込んで、1975(昭和50)年、運良く入所することができた。

  トラストは、わが国の美しい自然や文化遺産を観光資源として保護し、活用しながら、後世に伝え残すことを目的に、英国ナショナルトラストを手本に、当時の運輸省所轄の公益法人として、1968(昭和43)年に設立された。調査、保護、普及の三本の事業を柱とし、市民、行政、専門家と力を合わせて事業を推進していた。観光資源の保護対象を全国から募集し、調査をして保護対象に選定されると、資金的、技術的な手当てをしていた。僕は学生時代にNHKの「スタジオ102」という番組で、トラスト創設者の堀木鎌三氏がこの制度を紹介していたのを偶然見て感激したことがあった。そういうわけで、トラストへの入所はなにか因縁めいたものを感じた。

  僕がトラストに入って一番喜んでくれたのが祖母だった。「たくさん出張する仕事がいい」と僕に言っていた人だったからだ。まさに、観光資源の調査や保護事業の仕事は日本全国広範囲にわたるから、出張ばかりである。地域の人々と顔を合わせて話をし、現場を知り、初めて事業は始まる。地域との信頼関係を築くことが何よりも大切だからである。

  初めての出張は、緊張の連続だった。先輩のピンチヒッターで、藤島亥治郎先生(東京大学名誉教授)と今井金吾先生(街道研究家)のお二人の中山道の調査にお供することになった。中山道の起点である東京・日本橋から坂本宿(群馬県)まで街道沿いに残る歴史的遺産の現状を調査することが先生たちの仕事だ。街道をつぶさに歩くのかと思いきや、ハイヤーで一泊二日。

  「二人の先生はとても怖い人だから」と、先輩から注意を受けていたから、コチコチになっていたが、先生たちは調査の打ち合せをしながら、道路地図を広げてワイワイやっている。

  お二人とも沿線の景色と地図を代わる代わるにらんでは、「そこを曲がれ!」「ここだ!」と、街道に残る古い建物や道標などを見つけだしては、車を飛び降りる。

  明治天皇が宿泊された桶川宿(埼玉県)の本陣には感激した。当時のままの部屋や器を大切に保存していた。また熊谷宿(埼玉県)近くには遊郭が残っていて、遊女の逃亡を防ぐために周囲にめぐらされた堀も残存していた。

  駆け出しの僕には、社会科見学のように見るものすべてが新鮮で、一里塚、縁切り檜、桝形、本陣、脇本陣など、この出張で勉強することができた。なにしろ二人の大先生付きなのだから。古い街道の町並みや土地の人々の生活風景との出会いは、ほんわかとした空気感に包まれ、実に心地よかった。なんて楽しい仕事だろうと単純に思ってしまったのも無理はなかった。

  しかし、実際の仕事には厳しい事柄がいつも付いて回った。「もうやめてしまえ」と思うこともしばしばであったが、「紆余曲折をどんどんしてから方向を定めなさい」という井手久登ひさと先生(東京大学名誉教授)の的確なアドバイス、「誰もやっていない仕事だから頑張りなさい」という大河直躬なおみ先生(千葉大学名誉教授)の心温まる励ましをいつも心にしまって、僕は一歩一歩駒を進めてきた。「夢は実現するもの。勝負は勝つもの」とご教示いただいた宮脇昭先生(横浜国立大学名誉教授)にあやかり、夢を失わずに歩み続けてきた。

  トラストの仕事には専門的な知識と実践も付いて回る。僕が地域の人々やその道の達人と仕事を積み上げてこれたのは、井手先生、大河先生、宮脇先生のほか、藤島亥治郎先生、西山卯三先生(京都大学名誉教授)、吉川まつ先生(元文化庁鑑査官)をはじめとする、わが国の歴史的環境保全の権威である諸先輩方のご指導があったればこそなのである。すでにお亡くなりになられた方もいらっしゃるが、感謝を一生忘れることはない。

  英国に比べるべくもないが、日本の風土に合ったトラスト活動を目指し、市民、行政、専門家など多くの皆さんと力を合わせて推進してきたプロジェクトは、まさに地域固有のかけがえのない文化の復権をお手伝いすることだった。先祖から連綿と受け継がれてきた歴史や生活・文化遺産は、かけがえのない宝物なのだ。地域の文化を愛し、育て、それを実感しながら豊かに住まい続けることが、地域の誇り「プライド・オブ・プレイス」を育み、それぞれの地域の力が「プライド・オブ・ジャパン」を生み出すのである。