私の官民協働まちづくり


あとがき

 本書は都市計画学会で掲載された学術論文、建築・都市計画などの専門誌はじめ様々な新聞雑誌などに寄稿した原稿を基に全体の構成を練り、さらに取材内容、収集資料を加え、改めて執筆、書き起こしたものです。
  建築家、都市プランナーとして、東京の都心区港区長を務め、体験したことを記録に残し、関心を持つ方の資料として役に立てればという気持ちでいたところ、学芸出版社の前田さんと出会い、出版が実現しました。
  しばしば原田さんはなぜ(あるいはいかに)港区長になったのですか? という質問を受けました。実は港区と長いご縁がありました。1983年3代前の区長の私的諮問機関である「港区街づくり懇談会」(座長は故丹下健三先生)の委員を委嘱されて以来、港区区の木区の花選定委員、港区水と緑のネットワーク策定委員、港区都市計画審議会委員、港区住宅マスタープラン策定委員、港区環境調査審査会委員、港区定住対策研究会会長、港区超高層住宅問題研究会会長と3人の区長の下で公職を務めました。
  前区長菅谷眞一氏が病気で引退することとなり、次はどなたが…と思っていたところ、選挙の1ヶ月半前に突然私に後継者として出馬要請がありました。青天の霹靂とはまさにこのことです。街づくりの専門家として港区の街づくりに対し一定の貢献はさせていただいたという自負はあるものの、政治を動かすことに関心はなく、即座に出馬要請をお断りしました。「政治に関心ありません、政治を担うには人間が正直すぎます…。」いろいろお断りの理由を挙げましたが、「これからの政治家はあなたのような考えの人が良い…。」と口説き落とされました。「前区長の政策を継承するが、手法は私の信念でやらせていただきたい」と了承を取り、出馬、多くの信任を得て当選、区長に就任しました。
  私の人生観は「名もなく、貧しく、美しく」(1961年の映画のタイトル)、高潔、清浄、自立、美です。公正な行政運営に最大限の注意を払いました。
  実施した政策は本文中に書いたとおりですが、成果を出すことができたのは前区長菅谷眞一氏が敷設したレールがあったことをはじめ、多くの方のご声援、ご指導、ご鞭撻があり、そして何よりも、困難な仕事に前向きに取り組んだ一線の職員のお陰です。
  この間多くの方に陰に陽にブレインになっていただきました。本文中に記述した基本構想の委員の先生方(市川宏雄、高見沢実、浅見泰司、山本真美の各氏)、建築の恩師である菊竹清訓氏(世界の指導的建築家)を始めとする研究グループ、港区都市計画審議会委員の澤田光英氏(元日本建築士会連合会会長)、旧自治省、建設省、通産省など中央官庁の友人や東京都庁の友人、中でも東京都庁の友人の一部には区役所勤務経験者もおり具体的なノウハウを教えていただきました。技術士の仲間(代表森田裕之氏、土屋喜一早稲田大学名誉教授)も月1回勝手連方式で集まり、面白いアイデアをいただきました。都市問題の指導者の東京都立大学名誉教授柴田徳衛氏と同窓生(柴田ゼミ)にも激励をいただきました。友人でもある10人程度の都庁幹部が定期的に勉強会を開催し様々な話題を提供してくれました。
  基本構想の検討を開始する際は長年の友人ニューヨーク大学デイヴィッド・マメン教授(大都市政策の専門家―現京都大学客員教授)と元ニューヨーク・ニュージャージー港湾庁地域開発本部長のマイケル・クリーガー氏にお声をかけたところ快く港区に来ていただき、港区の大都市政策やウォータフロント開発についてご教示をいただきました。さらに、私の留学時代の指導教授で現ハーヴァード大学建築大学院長ピーター・ロウ氏も年1回港区長室に来訪、都市再生のヒントをご教示いただきました。文字どおり、世界を代表するような方々がブレインになって下さいました。
  職員や親しい議員から政策提言がありました。その他ここに書ききれない多くの方々のアイデアで本書に記述した様々な政策を実現できました。感謝を申し上げます。
  本書の出版にあたり、建築と都市計画で日本を代表する建築家菊竹清訓先生と横浜国立大学大学院教授小林重敬教授(私の博士論文の審査主査)に推薦のお言葉をいただき、この上ない名誉です。学芸出版社の前田裕資様、井口夏実様に編集上の様々な点でご指導、ご助言をいただきました。皆様に感謝を申し上げます。本書が大都市東京の都心区の街づくり政策に関する研究資料として活用いただけるなら望外の喜びです。

2006年盛夏 六本木のオフィスにて
原田 敬美