新版 まちづくりの経済学


あとがき

 日本のまちづくり(都市計画)の現状は、先進諸国だけでなく多くの発展途上諸国に比べてさえ随分と劣っているのではないかと、私は長いこと感じてきています。今の日本では、こうした都市計画規制を強化するのではなく、もっぱら景気対策を優先するあまりの規制緩和が推進されています。その結果、日本の都市の多くでは、幹線道路沿いに林立した派手な看板の陰で、市街地が醜く衰退し、バラ建ちスプロールが農地を無秩序に蚕食する中で、駐車場になった空き地とともに、空き家や廃屋も増え続けています。こうした状況を招いている背景には、この新版のコラムに付記したように、パレート改善という経済学の原理に反することを厭わない、一部の経済学者たちによる規制緩和の主張にも関係があると私は考えています。

 本書の目的は、そんな日本のまちづくりに関わっていたり、これから関わろうとしている人々にとって、実際に役に立つ経済学の手法や考え方を、できるだけ分かりやすく説明することでした。

 この本を読了した読者が、少しでも「なるほど」「分かった」「使ってみよう」といった感想をもってもらえたとすれば、著者の長年の努力が報われたというものです。これに勝る喜びはありません。

 学芸出版社の編集担当取締役の前田裕資さんには、原稿の準備から完成に至る諸々の段階において、まちづくりに関わっている人々の関心や気持ちを代弁して、内容についての率直な疑問や感想を提起していただきました。当初の教科書的なスタイルが改善されただけでなく、読者の興味に応える内容に仕上がっているとすれば、前田さんのセンスと努力のお陰です。今回の改訂についても、適切な助言をいただきました。深く感謝申しあげます。

 本書を構想したのは、十年以上も前のことでした。残念ながら、当時の日本は、バブル経済の真っ只中にあって、キャッシュ・フローにもとづく投資評価手法とか、公共投資における費用便益分析などといった本書の内容が素直に受け入れられる状況にはありませんでした。しかし、十年以上前に書き上げていた本書の草稿は、バブル崩壊後の、多くの経済的困難に直面せざるを得なくなった今日の要請に、不思議なほどに応えていたと自負しております。

 本書は、正統的な経済学の考え方にもとづいたものですが、いわゆる規制緩和論には組していません。それどころか、土地投機を抑え、まちづくり(都市計画)を進めていくためには、日本の都市計画規制を周到かつキメ細かく強化していくことが必要であると主張しました。しかし、日本では残念ながら、まちづくりに関わるとくに政府機関に所属する人々の間に、規制強化への消極論が根強いのです。この本の最後に、この問題に言及しておきましょう。

 消極論の大きな理由は、住民が望んでいないからだそうです。そして、政府ではなく、住民の自主的な取り組みに期待すべきだというのです。しかし、リボン・ディベロップメント防止の規約づくりなどを、政府が邪魔したりせず、支援していくとしても、住民が自主的に取り組んでいくことなど、期待する方が馬鹿げています。また、政府のキャンペーンなどによって住民の意識が高まっていけば、個々の建物の新築や改築にあたって、住民が自主的に美しく調和のとれた建築デザインを求めるようになり、街並み景観全体が向上していくと期待するのも、同じく馬鹿げているはずです。

 美しい街並み景観づくりで知られていたイギリスの町の都市計画局長に、「住民は自分の建物のデザインへの意識が高いのでしょうね?」と尋ねてみたことがありますが、局長は次のように答えたのです。「住民のほとんどはデザインに余り関心がないだけでなく、自分が好きなデザインを望みますから、任せておけば滅茶苦茶になってしまいます。この町の景観は、私たちが都市計画の規制によって実現しているのです」と。

 それでは民主主義の先進国であるイギリスの住民が、厳しい都市計画規制を受け入れているのはなぜでしょうか。それは、厳しい都市計画規制の必要性とその効果を納得しているからに他なりません。そうでなければ、都市計画規制には多大な費用も掛かっているのですから、彼らは都市計画当局の行政責任(アカウンタビリティ)を厳しく問い詰めるはずだからです。

 日本の住民が規制の強化を望んでいないとすれば、それは政府機関のアカウンタビリティに問題を感じているからだ、と私は思っています。事実、日本における規制には、本来の目的を忘れてしまった規制のための規制が、余りにも目立ちます。

 ここでもう一つ、私が知っているイギリスの例を挙げておきましょう。住宅地の街角に薬局をつくる計画許可をめぐって行われた、建築家と都市計画当局との話し合いの結果です。何と、この薬局は前の歩道にかなりはみ出して建設されたのです。日本では、街並みを害する醜悪なデザインの建築でも自由に建てられますが、歩道にはみ出すことは、理由の如何を問わず、話し合いの余地なく拒否されるはずです。規制の厳しいイギリスで、そもそもなぜそんな話し合いができたのでしょうか。

 実は、歩道にはみ出すことを提案したのは、建築家ではなく当局のプランナーの方だったそうです。予定地は、余り人通りのない住宅地の角地で、少し寂れた感じの所でした。薬局ができれば、住民の便利だけでなく、街角の雰囲気を明るくすることも期待できたからです。幸いに前の歩道がかなり広くなっていたので、店舗を歩道に上手にはみ出すことによって、街並みに一層の明るさを演出できたというわけです。

 この決定によって損をした人は誰もいません。そして、住民も薬局も、建築家もプランナーも皆が得をしました。このことを経済学ではパレート改善と呼ぶことを思い出してください。私が主張する都市計画規制の強化は、規制のための規制ではなく、パレート改善を進めるためです。これが、本書「まちづくりの経済学」の本来の目的でもあります。

井上 裕