産業遺産とまちづくり


はしがき

 明治や大正、昭和に生き、それぞれの時代の空気をいまに伝える近代産業遺産を保存する運動が各地に広がっている。そこでは「歴史は投資に値する」という判断が働いている。その場合の「価値」は経済的な稼ぎよりは、精神的な豊かさにつながることのほうが大きい。
  産業構造の転換や、古くなって生産性を追求する経営の要請に適わなくなったことが赤煉瓦倉庫を潰し、木組み構造の天井屋根が美しい紡績工場を取り壊す理由となっている。産業構造の転換は時代の要請である。国際競争に曝され、技術革新を促されるのはあらゆる産業の宿命である。したがって産業施設や工場の殺生与奪は、生産性が尺度となることはわかる。古くなって使い勝手が悪くなったものを壊すのも、産業主義の論理からは理解できる。
  しかし、それでも残したい──というのが時代の風となってきたのを感じる。それも単なる見学施設としてミイラ保存するよりは、経済社会に新しい役割を担って甦るように活かす。穀類を保管していた大谷石積み蔵をブティックに転用したり、鋸屋根の紡績工場を起業家のためのスモール・ホーム・オフィスに改造したりし、他の用途への転換──動態保存をしてほしい、と願うひとびとが増えている。

 なぜ、古くなった産業遺産を保存するのか。それも動態保存するのか。1980年代末に『町並み保存運動in U. S. A.』を書いて以降、自問自答してきた。しかし残念ながら生き馬の目を抜くグローバル競争の時代に、「古くなって使わなくなった産業遺産を後生大事に保存する余裕などない」と言われれば、正直なところそれを喝破するほどの答えは持ち合わせていない。
  それでも単純なことにこそ真実があるのではないか、という思いはある。赤煉瓦倉庫を改造した、しゃれたランプが灯るレストランで食事をするのはぜいたくなひと時である。倉庫壁として積まれた煉瓦は二級品が多いので風化がはやい。しかし逆に、煉瓦の角が欠けて浸蝕がひどいと、かえって建物が耐えてきた風雪の厳しさが滲みでているように思える。手で触れると煉瓦の暖かさが伝わってくる。いとしさがつのり、ほほを寄せたくなる。懐古趣味と言われれば、確かにそれ以上のものではない。それでもむかしをいつくしむことのできるのは人間の特権だし、いるだけで心が和む空間は、それだけで存在価値がある。
  舞鶴の赤煉瓦倉庫を活用するまちづくり運動が全国各地の赤煉瓦建造物の残る都市と赤煉瓦ネットワークをつくる運動に発展していったように、あるいは瀬戸の「窯垣の里」を守る市民の取り組みが希薄になりかけていたコミュニティの結束を呼び戻したように、産業遺産がひととひとの結びつきを強くし、新たなめぐり合いを生み出す触媒となっている。古びた建造物に対する愛着を、眼を輝かせて語るひとたちに出逢うと、歴史を保存する運動が地域の暮らしをいかに豊かにしているかに思い至る。
  結局のところ、保存することによって救われているのは、残すに値する産業遺産と邂逅したひとびとなのではないだろうか。
  「産業観光」と言う言葉が使われるようになっている。風光明媚な土地にある寺社仏閣を見て回るのだけが歴史探索の旅ではなく、現役で活躍する産業施設とパッケージにして近代産業遺産を訪ね歩く少し趣の違った歴史ツアーのことを指している。退職した熟年世代が疾風のように駆け抜けてきた産業化の時代を振り返る旅もあるが、中高校生が産業博物館となった工場訪問を修学旅行の日程に取り入れる話も増えている。物質的に満ち足りた時代に生まれた若い世代が、我々の前の世代が豊かさを追い求めて汗を流したその現場に立ちあってみることは、社会科の勉強としても意味深いと思う。登録文化財制度が整備され、近代産業遺産をまちづくりに活用しやすくなったことも産業観光に対する関心を呼び起こす理由になっている。

 本書は『月刊レジャー産業資料』(綜合ユニコム)の03年7月〜04年6月に連載した記事を書き改め、書き下ろし原稿を加えて1冊にまとめたものである。本書の出版にあたっていろいろな方々にお世話になった。長沼修二常務取締役が快く連載の機会を与えてくれなければ、この仕事ははじまらなかった。編集スタッフが読みやすい誌面をつくってくれた。連載が本になるにあたっては、学芸出版社の前田裕資さんから誘いがあった。実際の編集は中木保代さんにお世話になった。ごく限られた時間での編集だったが、手際よくこなされたことには感心させられた。
  末松と矢作は日本経済新聞社の同期生である。「いつかいっしょに仕事をしよう」と語り合って20年以上が過ぎる。日がとっぷりと暮れた時刻に宿に戻り、温泉に浸かって新米記者のころの思い出話をするのを楽しみに、末松は重いカメラを幾台も肩からぶら下げてシャッターチャンスを追いかけ、矢作はとっておきの話を探して関係者を訪ね歩いた。ふたりの約束がこうした形で実現したことは幸運の限りである。合掌。

  2004年7月
矢 作 弘
末 松 誠