本書は、ブラジルの都市クリチバの30年間に及ぶ都市政策に関して論じたものである。クリチバ市は66年にマスタープランを策定して以来、それを羅針盤に、ジャイメ・レルネル市長を舵取り役として、数多くの課題に確固たる意志を持って取り組み、創造的なアイデアでもってそれらを克服していった。そして、その結果、クリチバ市は都市としての魅力を徐々に高めていき、都市空間のアメニティは向上し、そこで日々暮らす人達が次第に自分達の都市に愛着と誇りを持ち始め、積極的に都市政策に参画するようになっていった。マスタープランを策定した時には60万人にも満たなかった都市は、30年後に160万人までに急成長したが、そのような成長を経験した多くの都市が無秩序と混乱に陥ったのとは異なり、マスタープランで策定した土地利用計画と交通計画が整合性を持って実践され、豊かな緑地空間を持つ優れたアメニティの都市空間が具体化された。
しっかりとした都市計画を策定し、その都市計画に誠実に従い、それに沿った政策を打ち出し、実践していくことを30年間続ければ、都市はかくも素晴らしくなる、という証拠がクリチバである。
ブラジルの片隅にあるクリチバが世界の耳目を集めたのは、92年にリオデジャネイロで開催された世界環境会議においてである。そこでジャイメ・レルネル市長が実践してきた環境政策が表彰され、その問題解決能力の高さと実行力で、世界の人々を驚嘆させたのである。しかし、クリチバが他の都市と一線を画すのは、環境政策だけではない。交通政策、土地利用政策、都市デザイン政策、住宅政策など、クリチバ市がこの30年間展開してきた都市政策は、どれもが創造的であり、何より問題に怯むことなく、果敢にその政策を実践することによって、多くの課題を見事に解決してきている。その都市経営の素晴らしい手腕の秘密は一体、何なのか。何故、クリチバは都市計画の奇跡とでも呼べるほどの成果を収めることができたのか。本書は、その秘密を探ろうと調査し、筆者なりに考察した結果をまとめたものである。
我が国では、都市計画に基づいてつくられた都市としてはブラジリアの方がクリチバより有名である。しかし、都市計画という観点からはブラジリアは、惨憺たる失敗であった。しかも、都市が出現して、あまり時間が経っていない時点で、失敗の烙印を押されている。クリチバはブラジリアを反面教師として、66年のマスタープラン作成時に都市のあり方を検討した。ブラジリアの都市計画において著しく欠如していたヒューマンスケール、優れたアメニティ、公共交通を中心とした都市の発展などが、クリチバの都市として進むべき方向性であるとマスタープランにおいて掲げられた。66年というと、ジェーン・ジェイコブスの著名な『アメリカ大都市の生と死』が出版されてから4年ほど経っており、従来の一部の権力者と建築家などによるトップダウンのスラム・クリアランス的な都市計画の在り方に、大きな疑問が出てきた頃である。ブラジリアやコルビジェの計画したインドのチャンディガールなど、机上では素晴らしいように思えた計画も、いざ実現したら恐ろしく非人間的でひどい空間であった。アメリカにおいても、スラム・クリアランスによって新たに創られた空間は、従来の人間臭さが感じられない漂白されたような無機質なものであった。ジェーン・ジェイコブスの指摘するように、従来の都市計画の方法を変える必要性を良識のある人々が痛感し始めた頃である。
クリチバはブラジリアのように、しっかりとした都市計画に基づいて発展してきた都市であるが、後者とは違い、ヒューマンスケールの、アメニティに富んだ素晴らしい都市空間を実現させた。同じ都市計画という手法を採用しても、その方向性、ビジョンが異なると、その結果も大きく異なるということが、この2都市を比較するとよく分かる。ブラジリアが都市計画の失敗であるなら、クリチバこそ都市計画の勝利である。そして、それは「効率性」といった指標ではなく、「人」を中心に据えた都市計画を展開させてきたことの成果なのである。都市の豊かさとは何か、都市は誰のためにあるのか、なぜ人は都市を必要とするのか。クリチバがマスタープランを策定してから30年以上に及ぶ都市政策の積み重ねは、まさにこれらの問いに対しての解答に他ならない。優れた計画があるところに優れた成果があるという、ある意味では当たり前のことをクリチバ市は我々に確認させてくれる。
本書は、その存在自体が都市政策の教科書であるクリチバの実態を整理し、その成功の要因を分析したものである。
本書は大きく五つの章から構成されている。第1章では、クリチバの概要そして歴史を概観した。第2章では、クリチバの都市政策を土地利用政策、緑地政策、交通政策、都市デザイン政策、環境政策、その他の都市政策、という括りで整理した。便宜上、政策で分類して整理したが、クリチバの都市政策は包括的であるために、個々の政策はお互いに強い関連性を有している。第3章では、クリチバの都市政策がなぜ成功したのか、その秘訣、要因に関して分析を試みた。第4章は、多くの成果を得たクリチバでも将来に向けては課題が多いことに関して整理をした。そして、第5章では、「日本の都市は住み良くできるか」として提言を試みた。また、それらの本編に加えて、クリチバの都市計画の父とでも言うべきジャイメ・レルネル元市長、そしてレルネル氏とともに、環境政策を始めとしたクリチバの政策を推進するうえで多大なる貢献をした日系一世のヒトシ・ナカムラ元環境局長への取材記事を載せている。
本書をまとめるにあたっては、数多くの関係者への取材と、筆者自身によるフィールド・スタディ、そして文献調査を行っている。特に、ヒトシ・ナカムラ氏、カシオ・タニグチ市長、ジャイメ・レルネル元市長には複数回取材をさせてもらった。
本書は都市計画や都市政策に関して自信を喪失してしまっている人、どのような都市政策を実施すべきか五里霧中のような状況に陥っている人、そして都市や都市政策に興味を持っている人を読者として想定して書き下ろしたものである。クリチバの30年間の軌跡を知ることで、新しい視座で都市計画や都市政策、そして都市を眺めることができるようになれば望外の喜びである。
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