耐震木造技術の近現代史
伝統木造家屋の合理性

あとがき


 木造家屋の耐震性について原稿執筆の話が持ち上がったのは、平成23年3月の東日本大震災から1年ほど経った頃だった。平成7年1月の兵庫県南部地震の甚大な被害に接して以来、多少伝統木造建築の構造についての研究調査や実験に関わってきたので、この機会に“木造家屋の現在”を見つめ直してみようと思った。

 ところで、近年伝統木造への関心が高まりつつあるのは喜ばしいが、一方では直下型地震の度に伝統木造には耐震性がないという風評が広まっているのが気になる。

 そんななか、平成19年3月の能登半島沖地震直後、宮大工、伝統左官、瓦職、そして鳶職の親方衆と一緒に門前や黒島など激震地域を現地踏査したが、一見大被害と見えても伝統家屋のほとんどは、数日で応急復旧でき、その後数カ月もあれば震災前の姿に復旧することはさして難しくないというのが一致した見立てであった。

 昔から伝統木造家屋は地震で被害を受けても、焼けさえしなければ大工棟梁や鳶職の手で復旧されてきたので、今回も当然そうなるだろうと思っていた。だが数カ月後に訪れると由緒ある町並みには更地が広がり、周囲の農地は解体家屋の廃材の山となっているのを見て本当にショックを受けた。

 伝統木造家屋は、もともとオーバーホールできるように作られている。そのため、地震で多少損傷しても、無理なく復旧できる。建設機械も技術も格段に進歩した現在では、なおさらである。にもかかわらず、簡単に復旧できる建物までが次々と解体されるという現実を目の当たりにして、日本の木造建築技術は本当に進歩しているのだろうか? 木造建築の技術基盤の崩壊は想像以上に深刻化しているようだ。

 こんなこともあって、明治以降現在に至るまでの150年ほどの木造建築の耐震化の流れを今一度たどってみようと考えて、まずは手始めに耐震研究の契機となった明治24年10月の濃尾地震とその後の動きについて調べ始めたのであるが、わからないことは多岐に及んで全貌は一向につかめない。

 そのため、明治20年代に身を置いて、当時の人々が何をどう考えたのか? 論説や雑誌、新聞にも目を通しつつ、当時の世相を追体験しようと悪戦苦闘しているうちに、わずか数年を辿るのに、4年以上経ってしまった。この調子ではその後現在に至る100年を俯瞰するのに、優に百年を要するではないか。

 建築史学とは無縁の一介の構造研究者が大それたことを考えたものだと観念し、とりあえず明治30年頃までを一区切りとして、あとは駆け足で戦後までを眺めた次第。

 最後に、日本人が長い歴史のなかで、営々と培ってきた世界に誇るべき伝統木造建築。それらは、近年耐震性を巡って時にいわれなき批判に耐え忍びつつ、わずかに命脈を保つという誠に心細い状況に陥っている。

 しかしながら、伝統木造を工学的な視点から調査し、観測し、実験し、そして解析してみると、その力学的合理性には驚くことばかりである。伝統木造建築は我々建築構造学者にとってまさに無尽蔵の学術的宝庫である。この事実は今回の執筆を通じて、より強固な確信となった。

 日本の優れた伝統木造の技術体系を現世代で絶やすことなく、一層発展させるために今我々がなすべきことは多い。今後は、若い人たちがさまざまな視点から、日本建築──特に伝統木造建築の耐震性について考究されんことを大いに期待しつつ、いったん筆を置くことにした。

 原稿を纏めるにあたり、多くの方々から有益な御助言を頂きました。末筆ながら厚く御礼 申し上げます。

平成29年12月
西澤英和