ライト 仮面の生涯


訳者あとがき

 本書は、1987年ニューヨークで出版され、現在も版を重ねるロングセラー、MANY MASKS≠フ完全邦訳で、原著者は『ニューヨーカー』誌の記者を60年以上務めたジャーナリスト、ブレンダン・ギル(1914〜1997)である。フランク・ロイド・ライト(1867〜1959)の三番目の妻、オルギヴァンナの没後(1985)、時を経ずしての出版であった。ギルはライトの記事を書いたことから、個人的な交際に及び、お互いの家族を交えたディナーに至るほどの間柄となる。ライト没後50年となる昨今、直に接した友人という、現代では稀有となった立場からの記述は、著者の没後と言えども、具体的な論証および事実の重みを今に伝えている。
 内容は、建築論に軸足を置きながらも、ライトの人生の歩みに加え、建築や建築家を取りまく社会背景、施主像、施主とライトとの群像を、ジャーナリストならではの冷徹なまなざしで客観的かつ赤裸々に描ききったノンフィクションである。建築界や建築作品に精通したギルの冴えも鋭い。現存する多数の書簡や手稿、取材対象者、事実から、天才ライトの天才たる所以を多角度から重層的に浮かび上がらせ、その像は現代の私たちに示唆するものが大きい。周知のように、ライトは毀誉褒貶に富む人物であり、波瀾万丈の生涯を送ったことは、これまでさまざまに紹介されてきている。が、しかし、題名が示唆するとおり、著者はいくつもの虚像をもとに語られてきたこれまでの人物像に、具体的事実や事実をもとにした推論から新しい光を投げかけ、ライトの〈真実〉が結果として建築作品に結実してゆく背景を丹念に描写するものである。ライトの非道なまでの自己中心性や欺瞞性などの欠点を描きながらも、ギルの怜悧な筆致と底に流れる大天才への敬服は、本書を、高品質な評論作品とするものである。言うまでもなく、評論とは論じる対象から本質を切り出す作業である。それは、とりもなおさず論者自らをあぶり出す行為でもある。その意味においても、ライトの第一級の評伝であると確信する。
 デザインと社会背景を研究テーマとする私は、モダンデザインのパイオニア的建築家、ルドルフ・シンドラー(1887〜1953)を追いかけるうち、ライトと出会うことになる。ライトの事務所の所員であったシンドラーは、峻烈なまでの手ひどい仕打ちを数々甘受しながらも、死の床にあっては、自分にとってはアルプスの高みのように仰ぎ見る存在であった、と師匠への賛辞を忘れていない。このように言わしめる、謎ともいえるライトの不思議な人間力。それに対する関心は、私をこの原書と遭遇させる。2005年、オークパークのライトのホーム&スタジオでのことであった。おもしろさに引かれ、むさぼるように読み始める。このおもしろさに共感し、励ましてくれた夫、建築家の塚口明洋に感謝したい。
 そして、原書に対して高い評価をされている福山大学の水上優氏からは、写真を多数ご提供いただいた。厚くお礼を申し上げたい。
 翻訳書の出版にこぎ着ける今日まで、温かく気長にお付き合いくださった学芸出版社の京極迪宏社長、そして編集者の永井美保さん、岩崎健一郎さんに、心よりのお礼を申し上げたい。彼らの存在がなかったなら、この書籍は世に出てはいない。
 本文の最終章に、次のような記述がある。「われわれはライトを去らせようとはしないし、彼もわれわれを去らせようとはしない。」没後50年になるというのに、ライトを取りまく環境をみれば、この書籍が書かれた1987年から20年以上経った現在も、この記述がますます説得力を持つありさまである。意識的に、あるいは心ならずも、その「われわれ」の一人になってしまったあなたと、読後感を共有できることを願っている。
塚口 眞佐子