工匠たちの技と知恵


まえがき
 

 建築の設計や施工に携わっている人たちは、いま日本以外の国の住宅のことを、どれだけ知っているのだろうか。公共建築や商工業の施設、共同住宅については、職業柄、海外の情報を参考にすることはあっても、海外の一戸建ての住宅、とくに伝統的な技法で建てられた庶民の住宅についてはほとんど知らないし、また当分は知る必要ないと思う人も多いのではなかろうか。
 世界の人口が65億人を超えている現在、一戸に平均4人が住むとすると、おそらく住戸の総数は15億戸を超えているだろう。ただし、西欧や北欧、北米、日韓などの先進諸国の人口は約8.8億、その住戸数が約3.6億だから、一戸あたり2.4人だし、中国のように住戸の半数は二世帯同居といった地域もあるから、この一戸あたりの平均居住者数は全くの推定だ。それでいて、先進国では公営・私設を合わせて共同住宅が3〜4割を占めるから、発展途上国を含めてその分を差し引くと、世界の一戸建ての住戸は、すくなくとも10億以上となるに違いない。
 この10億戸は、新築だけでなく既存のものも含んでいて、住み手自ら建てた小屋程度のものから、セミ・プロ的な腕達者たちが、住み手の仕事を部分的に手伝って建てた家や、要所々々は各種の建築職人たちが請負って建てた本格的な住宅までがその大半を占める。普通の現代的な手法で建てられていれば庶民住宅、その地域の伝統的手法で建てられていれば民家というべき住宅群がそれで、精密な図面なしに建てられる場合が多く、工事の詳しい記録も後に残さないのが普通である。
 いわゆる建築家たちが設計・監理した注文住宅は、先進諸国ですら、一戸建て住宅の僅か1パーセント以下、建築関連の企業が建てた住宅も10パーセント以下に過ぎない。発展途上国は、その両方の率がさらに低下する。これでは、その図面や記録が残され、他国の人にまでその所在が知れる一戸建ての住戸は、ほんの微々たる数になってしまう。日本の建築のプロが、海外の庶民住宅や民家・住居の事情にうといのも当然だろう。
 しかし、そうした無名の建築、とくに古くからのものであるがゆえに、顧みもされずに消え去った民家には、建築のデザインや建設の技法という点で、地域や時代の差を超えて現代の日本にも通用する、普遍的で優れた内容を持つものがあるかもしれない。また、これまでの建築の常識では説明できない、不思議さを秘めたものもあるに違いない。そのなかに主として建築の構法の面でどこか合理的で、応用豊かな面があれば、注目してみる必要があるだろう。なにせ、その対象は10億もある。海外を旅すれば、誰しもなにか心当たりがあるはずだ。それなのに、悲しいかな日本ではそうした例がまとまって報告されたこともないし、それをどう役立てるか、だれも考えようとしていない。そこで、筆者がこれまで出会った世界の片隅の事例から、名も無き工匠たちが示した見事な技と知恵のいくつかをとりあげ、その意味合いを考えてみることにしよう。

2007年9月
太田邦夫