ユニバーサル・デザインの仕組みをつくる


あとがき

 1989年初秋からおよそ1年間、私は米国カリフォルニア州バークレーで障害のある人自身の手による社会運動である自立生活運動について学ぶ機会を得ました。折しもADAが1990年7月に成立した時期と重なり、米国の社会運動の力強さ、草の根の活動と政治の距離の近さを実感することができました。また、当時のバークレーは自立生活運動を引っ張る有力人物が集まっていた時期でもあり、彼らとの交流の中から私自身が大きな影響を受けることとなりました。その後クリントン政権が生まれて、バークレーから有力な人たちがワシントンDCに移り、また残った人たちも亡くなったり、第一線から退いたりしていき、今から思うと私がいたころのバークレーは最後の輝きを放っていた時期だったと思えますし、その時期にそこにいることのできた幸運を思わずにはいられません。


  米国で暮らし始めて、車いすを使う私がどこに行っても抵抗なく店に入れ、鉄道に乗れ、バスが利用できることに気づきました。バークレーや湾を隔てた対岸のサンフランシスコは当時の米国で最もアクセシビリティの進んだ地域の一つであり、日本での移動のしにくさを実感していた私はその違いの大きさを体験して、なぜこうも違うのだろうかと調べ始めました。答えはすぐに見つかりました。そこではアクセシビリティを法律で義務化していたのです。これは当時の私にとっては驚くべきことでした。アクセシビリティの欠如は差別であり、罰則のある法律によって整備するものだという発想は私にはありませんでしたし、それは当時の日本人としてはごく普通の感覚であったろうと思います。アクセシビリティ整備は人の「心」の発現であり、あくまでも善意で自主的に行われるものだと考えていたのです。

  この滞米生活の中で、私の専門が建築設計であることから、多くの人がロン・メイスに会うべきだと勧めてくれました。ロンが誰なのかも知らないままに、1990年4月にドッグウッドの白い花に囲まれた彼のオフィスを訪ねました。ボンベから透明なチューブを伝って鼻に流し込まれている酸素の、呼吸に合わせたシュッという音と共に語られる彼の言葉は、低く穏やかで、米国の社会運動のリーダーにありがちな、俺が俺がという雰囲気は微塵もありませんでした。


  1990年に帰国して、私はすぐにユニバーサル・デザインについての報告を雑誌に書きました。この報告についての反応はまったくありませんでしたが、ここから私とユニバーサル・デザインの関わりが始まることとなったのです。市井の平凡な建築技術者であった私が、いまこうして本を書いたり講演をしたり設計規準作りに関わることになろうとは、当時は想像もできませんでした。そしてそれ以上に私にとって予想外なのは、ユニバーサル・デザインがこうも早く、広く浸透していったという事実です。高齢化、少子化が大きな影響をおよぼしたことは間違いありませんが、それにしても、変化は急速に、大きなうねりのように始まり、今に至っています。

  私は1996年に『バリア・フル・ニッポン』(現代書館)という本を出して、わが国の公共交通や建築物のアクセシビリティの遅れ、その背後にある人々の考え方の問題を指摘しました。

  その後、2001年には『ユニバーサル・デザイン−バリアフリーへの問いかけ』(学芸出版社)を出版し、ユニバーサル・デザインの概念整理を行いました。

  本書は、これまでの私のユニバーサル・デザインに関する発言で積み残してきた宿題に対する答えを出したい、そういう気持ちで書き始めました。そういう経緯で考えると、本書は私にとって、1990年にノースカロライナでロンに会ってからの歩みを集大成したものといってもいいでしょう。

  ロンは1998年に急死したため、もう彼の口から思想の深化を聞くことはできません。彼の薫陶を受けた者のひとりとして、ある種の責任感のようなものを感じつつ、この本を書きました。まだ書き残したことは多くありますが、いずれも構想としてはあっても検証ができていないものばかりで、これは今後の宿題として、時間をかけて考えていきたいと思っています。


  本書を書くにあたり、多くの方がインタビューや資料提供や相談に快く応じてくださいました。忙しい時間を割いてご協力くださった方々に深くお礼を申し上げます。

  最後に、本書に含まれた多くの情報や思想について勉学の機会を与えてくださり、温かい見守りとご指導をいただいた横浜国立大学名誉教授の小滝一正先生、横浜国立大学大学院工学研究院教授の大原一興先生、要所で適切な助言と考え方の交通整理をしてくださった倉敷芸術科学大学准教授の柳田宏治先生、出版をお引き受けくださった学芸出版社の前田裕資さん、永井美保さんに、改めてお礼の言葉を述べて筆を置きます。

2007年7月
川内美彦