美術館の可能性


はじめに

 「美学(Aesthetics)」という語は、ある時期から、美や芸術を哲学的にあつかう学問体系である「Aesthetics」の本来の語義から離れて、たとえば「男の美学」というように日常的に使われるようになった。「美学」ほどではないが、「美術館」という語もまた、日常的に用いられるようになってきている。そもそも、美術館は、法律的に内容が規定されているわけではない。博物館法のなかに、博物館があつかうべき資料が「歴史、芸術、民俗、産業、自然科学等に関する資料」(同法第二条)と規定されているもののうちの、おもに「芸術」に関する資料をあつかう施設という「解釈」が可能であるだけだ。
  一方で、美や芸術という語が、ある種犯しがたい魅力をもっているために、美術館という語も、なにかしら神聖な意味を帯びて用いられることになり、同時に「美」を認定する特殊な場として見なされることにもなる。つまり、明確な概念規定がないままにイメージが先行してしまう危険をはらんでいるのだ。本書であつかう「美術館」は、このような振幅のなかに位置づけられる。そして、「美術館」の幅がひろがれば、当然そこで想定される「作品」の幅もひろがる。そのことも本書では示されている。越後妻有アートトリエンナーレや南芦屋浜コミュニティ&アートプロジェクトが取りあげられているのは、そのような広義での美術館を考えているからにほかならない。そして同時に、美術館という語を用いることにより、ある種の「価値づけ」をおこなおうとするたくみなレトリックをも美術館の問題として示したかった。したがって、本書ではあえて「美術館」という語にこだわって記述が進められている。

 そして、執筆する二人の美術館へ向ける視線も、上記の振幅のなかにある。並木は、美術作品を研究する立場、そして、美術館で学芸員として勤務した立場から美術館を考えている。その基本は、作品あっての美術館という考え方だ。そして、その美術館が現在危機的な状況にあると実感している。そのことは、指定管理者制度の導入に代表されるような美術館をめぐる制度の変化であり、また、建築というハコと中味の乖離という現状により示されていると思う。それが本書の前半であり、建築を接点として後半は中川の主張が展開される。中川はむしろ、美術館から本来的な機能が失われようとするときに、そのイメージが社会に利用されているところに注目する。「まちづくり」のさまざまな事例のなかに、じつは美術館のイメージが多様に、そして、たくみに用いられていることが示されている。
  本書を構成する二つの眼差しは、美術史と建築史という異なる視線でもある。日本の大学では、この二つのジャンルが文学部と工学部にわかれていることが多い。しかし、われわれは幸い職場を同じくしている。美術館の学芸員を多く輩出し、そもそも収蔵品としての「美術作品」を扱うことが多い美術史と、近年ますます重要になってくる美術館の建築や都市における位置づけを扱う建築史。両者の視線は美術館が現代社会で示す幅と多様性のなかで複雑に交錯し、また、ときにまったく異なる方向を見ていることもある。しかし、美術館を大切なものと考える点は共通している。そして、これまで多くの美術館やアートイベントをこの二つの視点から見てきた。本書では、それぞれの視点から独立した章をあつかっているが、それは、そうすることにより、両者の立場がより鮮明になると考えたからだ。
  この二つの視点から美術館を捉えてゆこうという試みは、今までにはない、そして、それぞれ単独ではなかなか思い描けない美術館の「今」をあらわにしていく可能性がある。そのことはまた、それだけ美術館が社会的に複雑な「有り様」を示していることをもものがたる。現代社会において、美術館は、行政とか経済といった、これまで縁遠いと思われた切り口から語られることが多くなった。建築が話題になるのも近年の傾向だ。かつて「美の殿堂」などと呼ばれ、浮世離れしていた感のある美術館は美術史の独占市場であったかもしれない。しかし、今はそうではない。その閉塞していた美術館が否応なく社会と向き合わざるを得なくなったのである。
  そのことは学芸員の問題でもある。学芸員希望者は毎年増えているというのに、現役の学芸員がけっして満足して仕事をしていないというのも、本書の出発点の一つだ。それは美術館の変化に学芸員の方がついていけないということでもある。しかし、それだけが問題ではない。美術館の変化に対して学芸員の立場から意見を言う場がないのだ。学芸員が美術館のことを語ることは難しい。美術館について批判的に、あるいは前向きに語ることは、ある種の内部告発になるという現状がある。しかも、それぞれの館に固有の状況があるため、一般化して語ることも難しい。結果として、制度の変化に飲み込まれ、使い勝手の悪い建築に悩まされている現役学芸員の声は、なかなかおもてに出ないのだ。そのためにも、美術館の外からの何らかの発言は必要だと考えた。そして、これから学芸員になろうとしている人にも、現代社会における美術館の振幅の大きさと揺れを知ってもらいたいと考えている。多様化する状況のなかで、学芸員像もおのずから変わってゆく必要があるからだ。本書は、学芸員と学芸員志望者へのエールでもある。
  そして、もちろん、建築を志す人たちにも、この本を是非読んでもらいたい。いま、美術館建築に対する注目が高まっている。あるいは、建物という枠を超えて、美術館は建築家の課題となっている。このような傾向は今後も続くだろう。そのような事業に携わるときに思い出して欲しいのは、美術館には、保存・展示すべき「もの」があるという原点だ。これは、私がこれまで接してきたほとんどすべての学芸員の願いだ。それほどに、現在、美術館建築は内部から批判されているという事実を知って欲しい。そのことも本書の目的の一つだ。

 美術館をとりまく環境は加速度的に変化している。その変化にともなって、美術館に求められる役割もまた大きく変わってきているし、美術館が見せる顔もますます多様になっている。本書では、まず、現時点でできる限りの事例からそのような現状を見極めてみたい。

並木誠士
2006年7月