今井町甦る自治都市

町並み保存とまちづくり

はじめに

 今井町の町並みは、町並み保存が声高に叫ばれる以前から、住民自身の手によって守られてきたものである。東大調査によって、「発見」される経過をたどり、その価値の認識が建築から町並みへと拡大することで、重要伝統的建造物群保存地区制度(重伝建制度)という伝統的な町並みを対象にした文化財保存の制度が誕生するきっかけとなった。江戸時代初期以来の建築が七百五十戸もまとまって「群」として、古い町並みや路地の風情を残しながら、そのまま持続されてきた例は、日本において他に例を見ない。あたかも城壁に囲まれたヨーロッパの中世都市に匹敵するような都市が今日まで存続してきたのである。今井町の先人たちは、環濠と土塁によって周囲から自立し、町掟を定めて自らを厳しく律する検断制度を確立して、町を主体的に経営した。その精神は、防犯防災を厳しく求める気風として、今に伝えられている。

 自治組織を確立した町は「マチ」ではなく「チョウ」と呼ばれる。今井町の姿は、この「チョウ」と呼ばれるのにふさわしいものであった。その検断制度、すなわち司法制度と警察制度は、幕藩体制が確立した後も、一部が継続された。今西家の白洲(土間)と上田家に残る捕縛武具の類は、裁判権と警察権のシンボルである。通常、今井の自治は、この江戸時代に幕府から保障された自治権を言う場合が多いが、戦国時代末期に確立した自治都市=チョウの権限が部分的に承認されたものなのである。織豊政権が中央集権を志向したのに対し、徳川幕府は基本的に地域組織を破壊せず、統治の下部機構として活用する施策を採用したから、地域自治は決して珍しいことではない。しかし、ここまで許容された例は稀であろう。「今井札」という通貨の発行権を認められていた事実も勘案すると、今井では「地方政府」としての体裁が江戸時代を通じて維持されていたと考えられる。今井町の自治組織を理解するうえで、このことを忘れてはならない。

 大学や文化庁による今井町の調査研究によって、今井町の建築や町並みの価値が明らかにされ、それを証明するかのように七軒の古民家が一挙に国の重要文化財に指定された。しかし、今井町の住民たちは、容易に外部の声に左右されない。東大による最初の調査から三十余年もの間、国や自治体が働きかける中で住民間の論議が繰り返され、なかなか町並み保存の結論に至らなかった。町並みや建築の価値に無知だったわけではなく、今日まで町を自主的に維持してきただけに、外部の権威に唯々諾々として従うことを潔しとしなかった側面がある。「自治都市今井」の旗幟は、町並み保存への賛成反対の立場を超えて説得力を持っていた。一般住民の間にも、他からの拘束に対し、通常以上の拒絶反応が存在した。今井の人々が長い間に培ってきた歴史的な遺伝子である。
  町並み保存の論議は、自治会や町並み協議会(後に町並み保存会に改称)だけでなく、やがて親和会や今井青年会などの住民組織もかかわり、賛成反対双方の署名運動が行われ町を挙げての論争となる。終には賛否両派の人々が同席して互いの主張を激しく表明した。その結果、対立の中から、自治都市ボローニャ市(イタリア)の例をヒントに、本来の伝建制度にはない「住民審議会」という独自な制度が誕生し、劇的な重伝建地区選定に至ったのである。この間の経過は、選定後の町並みの修復・復原に匹敵する今井町の成果と評価してよいであろう。

 筆者は専門誌等の取材を通じて町並み保存運動に接し、今日まで多くの困難に直面しながら保存運動を推し進めてきた人々の証言を発表してきた。今回、今井町の町並み保存運動について、その経緯をまとめる機会を与えられたことは、またとない幸運であった。執筆に当たっては、登場いただいた方々の敬称を略したが、各位のご理解を賜れば幸いである。

平成十八年秋
筆者識