3 はん亭物語

高須治雄(はん亭)

高須治雄さん


商いを始めて30年
 高須です、どうぞよろしくお願いします。今日はこんな絵を店から持ってまいりました。これが店の外観です。そして、うちの店の平面図を参考までに配りました。今朝、店のパンフレットをうちから持って来ようかと思いましたら、家内がそんなところに行って店の宣伝なんかしちゃいけないと言うので、置いてきてしまいました。そうして、ここへ来ましたら三船さんがぜひそれは欲しいというので、家内に急きょ持ってきてもらって、後からパンフレットをお手元に配れるかと思います。今日はお時間が大変おしているようで、私は前の方のように上手くおしゃべりができないかと思いますが、なるべく急いでお話をするつもりです。一言だけ、時間もないのに余計なこと申し上げて大変恐縮なのですけど、東京大学は構内を散歩したり、通り抜けをするということはしばしばあるのですが、こんな教室の中に入るのは初めてですし、ましてやこんな教壇に立って、こんなに大勢の皆さんに何かしゃべるなどということは、私のこれまでの人生の中でまさに大事件のことでございます。そんな私を冷やかしにか、応援にか、友人までが見物に来てくれました。今日私が、このような席でどういう話をしたらよろしいのか、先日三船さんにご相談しました。私とこの建物との出会い、住むにいたった経過、そしてこれを今どのように活用しているかということを、体験談として話してくれればということで、そんなことならと引き受けて、のこのこと出てきたわけであります。
 しかし、皆様の前でお話するわけですから、昨日一生懸命下書きをいたしました。ところが書き出しますと、商いを始めて30年、様々な出来事があり、この建物に出会ったことで、ある意味で私の人生も大きく変わったことでございます。そんな想いが錯綜して、とめどもなく長いものになってしまい、棒読みしても30分以上になってしまって、これでは今日は私の独演会にもなりかねないのでふと思い出しまして、このような本を取り出してまいりました。これはご存知かもしれませんが、森まゆみさんという方が書かれた『不思議のまち―根津』という本です。森さんは谷根千という谷中・根津・千駄木というこの周辺のタウン誌を出版されています。多くの著書もあります。この街の歴史や、この街の人たちの昔から現在に至るまでの生き方や生活を取材された、そして記録された本です。
 この中になんと私も取材を受けました。お話をしたことを聞き書きという形で書かれています。それを読んでみますとちょうど10分か15分で済みますので、今日はその部分を参考にしながら、私の話をさせていただきたいと思っています。


はん亭の誕生
 見出しに建築再生物語と書いてあります。「根津の大通りの一本裏に木造3階建ての串揚げ屋があって繁盛している。紺の暖簾に木目の洗い出された板戸。盛況のこの店のご主人高須治雄さんに、お店をはじめるまでの話を聞く」と書いてあって、ここからが私の語り口なのですけれども、実は森さんが雰囲気を出すために私のことをべらんめえ調で書いておりますが、決して普段そのようなことはなく、大変上品な喋りしかできない男でございます。私は35歳で脱サラして、上野の本牧亭の真裏で小さなカウンターの串揚げ屋「くし一」をやっていました。店は少しずつうまくやっていましたが、7、8年のうちに周辺の環境が悪くなって、ピンクサロンが客引きをするので、まともな客が道を歩けなくなった。その雰囲気がいやで、夜、店を開けるのが毎晩うっとうしかった。
 その頃、根津にある弥生会館で飲食店の会合があり、根津の裏通りをぶらぶら歩いてふと見るとこの木造3階屋に出会ったんです。湯島に木造3階建てがあるのは知っていましたけど、根津のこんなところにこんな建物があるとは思いもよりませんでした。それから取りつかれて、どんな人が住んでいるのかななんて想像して何回も見にきました。そして、ついに区役所に調べに行ったらある運送会社の独身寮だってことがわかったんです。なにも独身寮ならこの建物である必要はないと思い込み、もし売る時は僕に声をかけてほしいと言ったんです。あんなボロ家を買いにきた物好きがいると、向こうも驚いたらしいです。
 そのうち景気も悪くなって、向こうは売ろうかという話になりました。確かその間約3年かかりました。そりゃあ、ああいう建物は残す義務があるとか、うまく活用してみせると豪語した手前、売ってもよいと言われるとかえってあわてました。条件もわからない、中も見たことがない、買ってすぐ壊れちゃうんじゃないか、そこで上野の店の常連で芸大の建築科を出た浦さんに調べてもらいました。そしたら多少柱がゆがんでいるとか、3階で鉛筆をころがすとコロコロ片隅に転がる程度のことはありましたが、基礎、柱から構造もビクともしない、あと数十年は持つって太鼓判。こうなりゃやるべきだと思いました。
 さて、いくらかかるのか。お金もないし、一時は十条の自宅と取りかえっこしないかという大胆な提案までしたんですが、とにかく価値観の違いがありますから、こちらは垂涎の建物でも、向こうにしてみりゃとっくに減価償却の済んでるボロ家で、しかも借地ってことで、提示された価格はまあ手に負えるものでした。その当時、根津のこんなところで商売になるのか考えてもみなかったことで、とにかく両親含めて6人家族、いまどきマンション買うより広くて安いや、と家族を説得し、庭付きの家を処分して、この根津の町なかに引っ越しました。これがおっちょこちょいの家族で、この3階屋を見上げて「へえ、かっこいいや」というわけですよ。


建物を改修する
 次は改造の手配です。運送屋の季節労働者用の寮ですから、家の荒れはてようといったら。ベニヤで仕切って外はプラスティックの生子板を張ってあって、見るも無残。いい大工を紹介してもらったら、「こりゃ金食い虫だぜ。いくらかかるかわかんねえや」って言われました。でもこっちは本物の部材で再生させたいとすごい情熱でしたから。大工さんも一徹な人で、よくわかった、といったらあとはきかないことばかり。よくケンカもしました。1階の店の真中においてある大テーブルも、ある家具屋で静岡の若い作家の作品を気に入って、金がないので直接交渉しようと、ちょっと梱包の箱が店にあったのを密かにメモって静岡までいったりしました。それでもここはあくまでも住まい。1階はわが家のダイニングキッチンのつもりでした。そして上野の店の客で、もう少し静かで変わった所で食べたいという人がいたら、地下鉄で一つ乗って来てもらって、その間に私が自転車に材料積んで先回りして、ゆっくりおもてなししましょうと、そんなことを考えてました。だから最初は椅子も12しか入れなかった。
 ところが工事中から、何やってるんですかと見にくる人がひきも切らない。説明すると、そりゃオープンしたら一度来たいもんだ、との返事です。完成したときに、懇意の染織家に暖簾を頼み、今までの「くし一」から半歩前に進みたいと、「はん亭」という屋号をつけました。暖簾をあげると、毎晩押すな押すなの大盛況。湯島の店は若いのにまかせて、あわてて椅子を増やしました。そのうち、宴会がしたい、座敷はないかというので、私たちのテレビもタンスもある居間に通すことになりました。そのうち両親があいついで亡くなり、我々は近くに借家をかりて、ここは全面的に店になっちゃいました。


大正時代からの歴史
 この家を最初に建てた人のご紹介が遅れましたが、そもそもこの家は三田さんという方が経営する下駄の爪皮屋だったんです。ま、根津ではちっとは知られた大店で、建築は大正初期だということです。息子さんに店のあとを継がせようと東京商科大、今の一橋大学に入れたんですけれども音楽が好きで、後で著名な音楽家になられたそうです。通りにある風貴堂さんというのが茶道具を扱う店なんですが、その間にもう一軒ひっそりと暮らす家があります。ところがその人があるとき越すことになりました。その時に大家の三田さんからぜひ借りてくれないかという話がありました。私は店としては3階建て部分だけで十分だったんですが、また住まいにすればいいやと心を決めて借りることにしました。そしてその借りた場所に立派な土蔵があるなんて知りませんでした。また、建築家の浦さんご夫妻、前の大工さんにお願いしてすっかりよみがえらせてもらいました。今では土蔵の中が一番人気があるんですよ。座敷で串揚げというのは珍しいんです。揚げたてのアツアツを食べていただこうと思うと人手がうんとかかる。お客さん80人に従業員15人もいます。この根津ってのは谷底の職人町ですよね、なんとなく温かく、しみじみするような所です。この3階屋に初めて上がったとき、床の間のケヤキの板がすばらしかったですよ。想像しましたね、きっとここの主人が、近所の長屋の八つぁん熊さんを呼んで花見だ月見だと一杯やったんじゃないかと、上野の山もよく見えたでしょう。両国の花火もきっと見えたことでしょう。でもねえ、越してきたその冬の寒さったらなかったです。すきま風で石油ストーブも怖くて使えなかったし。でも、かつて三田さんもここで冬の寒い日に火鉢で暖をとっていたのかな、なんて考えたら楽しかったですよ。
 森さんは「根津や谷中の民家はちょっとやそっとでは残らない。地価が高く相続税、固定資産税の負担の重い今日の東京で、ただ古い家に住んでいるだけでは残すのは難しい。建物の風情が店に付加価値をつけ、料理にプラスして客を魅きつける店として、『はん亭』がある」と、このように書いてありました。森さんは、私が20年間にも及ぶこの建物との関わり合いを端的に私の言葉で表現してくれたと思います。私は常々、店の従業員にこの店が繁盛しているのは我々の作る料理が人一倍、並外れておいしいわけではなくて、きっと日中鉄筋コンクリートの塊の中で仕事をしてきたサラリーマンの人たちが、この古い木造家屋で食事をしたり、飲んだりすることでやはりその空気と雰囲気の味わいを感じるのだろうと、だからこの建物をもっと大切に扱わなければならないと申しております。この度、この建物が三船先生などのご尽力によって登録文化財ということになりました。名誉であるとともにこの建物が文化的な財産なのですから、もっとこれからも大切に維持・保存していかなければならないという私自身への戒めの印として、21世紀にいつまでもいい形で残せるように頑張っていきたいと思います。
写真2 根津のランドマークとなっている木造3階建


根津のランドマークとして
 最後に建物の説明をさせていただきます。これが不忍通りから1本入った裏通りです(写真2)。ほとんどの人がご存知でしょうけれど、本当に下町の雰囲気が随所に残っているところです。ずいぶん変わりましたけれども、ここに変わりない子供の店があります。ここは今でも親子3代、4代の子供が出入りする駄菓子屋さんです。その向こうにある、私がこの通りに立ってちょうどこの角度くらいの所で、「えっ」と思って見上げた建物で、そのままほとんど外観はいじっておりません。手直しは毎年のようにいろいろとやっておりますけれども、外観は一切変えてないつもりでございます。
写真3 1階の店舗内部
 また、3階部分がちょっと突き出しています。3階が8畳と6畳に向こう側にちょっとした突き出しがあって、トイレがついています。そして2階になると6畳が二間で、1階も6畳が二間です。ちょっと上にそそり立っているような変な状態でして、もちろんこれは下駄の爪皮屋さんの住まいだった部分ですから、そのまま飲食店にするわけにいかないので、内装は変えさせていただきました。あちらに見えるのが大テーブルの隅でございます(写真3)。
写真4 “蔵中”の席
 3階の部分にはじいさん、ばあさんが住んでおりました。その隣の部屋はもう内装を変えましたけれども、子供たち2人の部屋でございました。
 先程浅草のお話の中で感心してぜひ伺いたいなと思ったのですが、これは蔵なのですが、そんな漆で床を塗るようなことはとても私にはできないので、実にシンプルに改装して、ここも客席にしております(写真4)。蔵を見上げたところですが、これは天井裏が物置のようになっていまして、やはり梁に紀元何年三田平吉というような墨痕鮮やかな印がやっぱりございます。以上で説明を終わります。ありがとうございました。
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