調査は2月1日から神戸市、 芦屋市、 西宮市、 宝塚市、 尼崎市、 伊丹市、 及び淡路島、 大阪府下を対象に近畿の学生を中心とした約千人のボランティアにより行われた。
対象地域をくまなく歩き、 一つ一つの建物の被害状況を「全壊」「半壊」「一部破損」「被害なし」の四段階で判定し、 地図に「赤」、 「だいだい」、 「黄」、 「緑」の4色に塗り分けた。
今後、 被災地域の復興計画を検討する上での基礎資料としていく考え。
今回完成した被災マップは特に被害の大きかった須磨から西宮までの第一次調査分で、 完成した地図は5千分の1、 1万分の1に縮小して印刷、 製本して一般に公開していく予定。
残りの地域についても現地調査、 色塗り作業が現在進められており、 まもなく第二次分として完成する予定。
P1注記 by 学芸出版社 ここでは少々大きくしてもとても分かるような代物にはならないので小さくしか載せていない。
この被災地図は都市計画学会関西支部より発売されたが、 現在のところ在庫がないと聞く。
その一部は当社より刊行した『安全都市づくり』(紙野桂人監修、 都市計画学会関西支部編)にカラーで掲載している。
その触りのカラー画像は当ホームページにも掲載したので覗いていただきたい。
なお都市計画学会関西支部ではもっとちゃんとしたデータをインターネットで公開する予定もあると聞いたので問い合わせていただきたい。
つまり、 地震(自然)にあらがって打ち勝つ堅固な町か、 それとも自然の摂理に従って柔らかな町か、 とういう選択だ。
今回の地震は関東大震災の2倍の力が働いたという情報の真意のほどは定かではないが、 全てを前例のない地震のせいにして、 耐震基準を強化するという式のまちづくりはどうかと思う。
現場で感じることは、 割に常識的で、 壊れそうなものがやはり壊れたという印象が強い。
木造であれ、 非木造であれ、 従来の基準でしっかりつくればそこそこ持つ。
むしろ、 不自然な形の構造物や、 巨大な集中的供給処理システムは大自然の前には脆弱だという認識が重要だ。
新生神戸は、 真にエコロジカルで、 小規模自立型の地域の連合といった町がよいのではないか。
震災によって神戸・阪神地域は、 30〜40年前に逆戻りした。
住宅の質的向上、 総合的住宅政策の時代から、 突然、 量的住宅問題の時代に転落してしまった。
一刻も早く、 仮設住宅を全避難民にという課題が差し迫っている。
しかし、 時代は明らかに90年代であり、 高齢者・単身世帯社会である。
また、 この震災で、 新たに心身に障害を受けている人も多い。
こういう時代にこそ、 住宅政策を福祉や医療と結合して、 総合的な居住保障の仕組みを創り出すことが必要だ。
そうしたソフト・ハードづくりを、 避難生活の中で生まれている新たな連帯を大切にしながら、 育んでいくならば、 以前にもましてすばらしい町が生まれよう。
避難生活の悲惨さを前にして、 のんきな夢物語を言っている場合ではないが、 復興計画の理念にはうるわしい町をつくろうというパッションは不可欠である。
第一次的な避難生活の貧困さは今の問題であると同時に、 将来の住宅・まちづくりをも貧しいものにする原因となる。
避難所や仮設住宅を人間的なものにする事は中長期的な計画づくりにとっても重要な課題だと思う。
ここでも、 電気・電話が止まり夜の明けるまでローソクが活躍。
明るくなって外に飛び出してみると、 母屋の西側の「高(たか)…古い形式の農家の屋根裏部分」の外壁が全面見事に落下し、 その下の下屋も押しつぶしていた。
他に倉の外壁が道路に一部脱落し、 通行の邪魔になるのですぐに息子と取り除く。
近隣の家々は見回したところ何処も無事なようで、 大きな被害は我が家だけのようだった(後に瓦屋根の家は一部破損していることが判明した)。
この家の敷地は約1,500年程前に築池の土砂で盛土した宅地で、 隣近所の地山を造成して作られた宅地とは異なっている。
幸いにも大屋根は私が移り住むときに瓦屋根からスレート葺きにしていたため(お金がなくて)、 余程軽傷で済んだようだ。
その後、 URグループの一員として被災地の状況を調査していて、 古い木造の瓦葺きの家屋が大部分倒壊しているのを見るに及んで、 その感を深くした。
新聞やテレビの報道による専門家の調査結果でも、 埋め立て地の被害が大きいようである。
近年の丘陵地の宅地造成の約半分は盛土工法でなされていると言われているだけに、 今後、 盛土宅地の造成法について充分な対策が望まれるところである。
1,500年経った盛土宅地でも、 近隣の地山宅地とは明らかに違うのだから。
地震のあった翌日から事務所に居続け、 片付けをしたり、 作業場の準備をしたりの日々のあと、 やっとのこと自力で電話をつないでからは、 一日中電話の前を離れられないことになってしまった。
聞き取りにくい通話状態でひっきりなしに鳴る電話の応対は、 しかも相手がどなたかかわからないのでいいかげんな返事をしないようにという神経の張り詰めた状態がずっと続いた。
その間、 三宮や長田区の情報は数限り無く入ってきて心まで落ち着かず、 いてもたってもいられないが出掛けて行くことはどうしてもままならなかった。
以前から神戸の近代建築の保存運動を展開してきた仲間たちの新聞記事やコメントを目にしても歯痒いばかりで、 一目この目で確かめたいと思うばかりだった。
土曜日(2/11)の午後、 留守番をしてもらえることになって、 やっと出掛けられることになった。
ちょっと不謹慎な言葉になるが喜んで出掛けた。
14:00 阪急六甲駅から市バスに乗り加納町の交差点で降りた。
市バスの運転手さんが「ここから先は混雑が予想されますので三宮方面にお越しの方はここでお降りになるのがいいと思います。
」とアナウンスされた。
ほとんど立錐の余地のないほど混雑していた車内はここでガラガラになった。
マスクをしてヘルメットをかぶり、 加納町の交差点の立体歩道橋をわたった。
南へ歩いて行くと道の両側ともビルがガタガタになったり、 傾いたりして壊れている。
JR三宮駅の北側までくると日本生命三宮ビルが東に傾き、 その南側の但馬銀行神戸支店の但銀ビルも同じように傾いて危ない。
少し揺れたら柏井ビルの二の舞いだ。
その南、 今や世界に名高い阪急三宮駅は、 もはやほとんど原形をとどめず、 すでに放水の中でガレキとなっているのをただ呆然としばらく眺めてシャッタを押すのも忘れていた。
三宮センタ街は昼間なのに薄暗く、 土曜日の賑わいだけは依然とかわらないような人通りだが、 ただその賑わいの中身がまるで違う。
リュックを背負いマスクをして黙々と歩く人々はここにお店をもっていた人達なのか、 通っていた人達なのか知る由もないが、 ただ静かにわき目も振らずに歩いて行く様子は、 つい1ヶ月前は華やかなショッピング街だったとは思えない通になってしまった。
生田筋を南へ、 新しい朝日ビルを西へ、 もう一度南へ曲がると馴染みの旧居留地、 左手にさくら銀行、 右手前方に大興ビルがボロボロになってしまってそれでも健気に建っている、 角まできて見上げたとき思わず目の中が熱くなった。
『どうして‥‥』。
初期居留地のたったひとつの遺産だったノザワのあの可愛いちいさな洋館「15番館」は後ろに新しく建てられた新館のガラスの中に吸い込まれでもしてしまったのか全くなにもない。
もはやガレキすら片付けられている。
高級ブティックが並んでいたブロック30は大きなショーウィンドウをベニヤ板で覆って見るも無残な姿をさらしている。
西へ歩くと大丸の南東角リブラブウエストはしっかりと大地に建っている、 これは大丈夫。
この角から南は最も悲愴な状況でカフェレトロのあったトキワビルは跡形もないガレキとなり、 明海ビルもすっかり姿を変えた。
海岸ビルも大好きだった商船三井ビルもバラバラと壁が落ちている。
栄町へと向かうと心がはやり足がもつれた、 解体中で一皮でも保存をと言い続けていた建物も地震で壊れた大義名分で跡形はない、 日産ビルも。
一刻も早く第一勧銀へと急いだ。
どうしてたったの20秒がこんなにも世界を変えてしまったのか。
自然に向かう手立てなしなのか。
あの美しい独立柱はいったいどうしてしまったのか、 だれが壊していいっていったのか皆が愛したあの建物たちはいったいどこへ行ってしまったの、 わたしたちの町を輝かせてくれたあの神戸モダニズムは。
見ないほうがよかったかもしれない。
1995年2月11日(土)
神戸市内で被害の大きかった東灘、 灘、 中央、 兵庫、 長田、 須磨において千人規模の避難住民のいる避難所を各区2ヵ所づつ選定し、 避難所の対策本部の協力を得て、 アンケートの配付・回収を行いました。
現在、 アンケートの回収をほぼ終えて集計・分析を行っている段階ですが、 およそ千数百票の回答を得ています。
調査の結果は、 これからの詳しい分析を待たなければいけませんが、 ほとんどの人が緊急に仮設住宅を必要としていることや、 今後も住み慣れた神戸を離れず住み続けたいという意向を持つ人が非常に多いことなどがわかってきています。
調査チームでは、 できるだけ早く集計・分析をまとめて、 今後の住宅復興計画づくりに何らかの提言を行っていくことを考えています。
・神戸大学 住宅復興調査チーム 工学部 建設学科 (塩崎・児玉)
一つは、 新開地周辺地区まちづくり協議会が2月3日に第1号を発行した「復興」というニュース。
このニュースは、 「アートのまち新開地の再生をめざして」というキャッチフレーズのもとに、 協議会メンバーである住民に向けて、 新開地周辺地区のまちの復興・再生計画のポイントや住民としてのとりくみの体制について紹介する内容となっています。
このような地区レベルでのまちづくりニュースが、 今後多くの地区で発行されていくことと思われます。
各地区の情報をお寄せ下さい。
もう一つは、 「ふくじゅそう」という東京からの後方支援のニュースで、 2月12日に事務局宛にFAXで送られてきました。
これは、 東京都世田谷区で以前から市民レベルの住まい・まちづくりの活動をしている梅ケ丘アートセンターの丸谷博男氏が急遽、 編集・発行したニュースです。
ニュースの終わりに発行に至る経緯が以下のように書かれていました。
「……(地震による建物被害調査の)レポートをまとめている2月10日の夜、 突然神戸からFAXが送られてきました。
『復興市民まちづくりニュース創刊!』の知らせと共に創刊号『きんもくせい』が届けられました。
とても嬉しくなる情報でした。
神戸大学、 民間のコンサル、 設計事務所の仲間が頑張っています。
そこで、 私たちも単なる『レポート』でなく、 早春を知らせる『ふくじゅそう』としてニュースを発行することにしました。
関東、 関西、 そして東海に共有できるまちづくりニュースとして、 ネットワークに参加していきたいと思います。
私たちは東京に居ますので、 後方支援としての役割と共に、 東京にあって安全なまちづくり形成のために活動していこうと考えています。」
これからも、 各地から発信されるニュースや活動などとネットワークしていきたいと思っています。
ご協力をよろしくお願いいたします。
復興計画についての意見やまちづくりの進捗状況など何でも結構ですので、 情報、 原稿を編集局までFAXでお寄せいただくようお願いいたします。
また、 まちづくりの現場や活動拠点に、 編集局から取材にお伺いすることも考えておりますので、 ご協力のほどお願いいたします。
東京発の後方支援ネットワークニュース「人町花」とは密接に連携しながら発行していきます。
そちらの方への情報提供もあわせてお願いいたします(「人町花」への連絡は FAXで! 03-5466-2750 )。
■連絡先:阪神大震災復興市民まちづくり支援ネットワーク事務局
P4
「1,500年の盛土宅地」
あとりえ玄 代表 速水 紘八郎
京都(震度5)の大山崎町(天王山で有名)に住む私も、 この大震災に驚いて眼を覚ました一人である。
中華料理店「燕楽」前の歩道上にできたにわか店
「保存運動の建物たち」
まちづくり株式会社コー・プラン 天川佳美
大震災の神戸の町を連日テレビが放送している。
私たちの自慢の町が痛々しい姿で毎日毎日テレビに映し出される。
20日以上が過ぎて4回目の土曜日(2/11)、 建国記念の日に震災後はじめて神戸の中心地に足を運ぶことができた。
やるせない思いが涙となってとめどなく頬をつたった。
タイルのはがれ落ちた商船三井ビル
わずかな残骸を残すだけとなった第一勧業銀行
復興市民まちづくり支援ネットワークの活動等
住宅復興調査を実施しています
今回の大地震で大きな被害を受けた住宅を今後どのように復興していくかを検討するために、 神戸大学・住宅復興調査チームでは、 避難所の住民を対象としたアンケート調査を実施しています。
発達科学部人間環境科学科(平山)復興に向けて様々なニュースが発行されています
この市民まちづくり支援ニュース「きんもくせい」や東京後方支援ネットワークの「人町花」以外にも、 いろんなかたちで復興を支援するまちづくりニュースの発行が相次いでいます。復興まちづくりに関する情報提供、 投稿のお願い
このニュースは、 復興まちづくりに最前線で関わっておられる皆さんから寄せられる情報をもとに逐次発行していこうと考えています。
〒657 神戸市灘区楠丘町2-5-20 〒657 神戸市灘区六甲台町1
まちづくり株式会社コー・プラン 神戸大学工学部建設学科
TEL.078-842-2311 TEL.078-803-1029
FAX.078-842-2203 FAX.078-803-1029
担当:天川・中井 担当:児玉
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