旧市街の匂いが好きだ。古い街路を磨いたことを想わせる洗剤の匂い。庶民的なバルから漂う、安い魚を揚げるねちっこい油の匂い。路面に面した小さな酒場から漏れる、朽ち果てそうな古いオーク樽とワインがないまぜになった酩酊の匂い。狭い路地ですれ違う老人がくゆらすタバコの強い匂い。そして下水の匂い。ごく有り体にいえば、生活の匂い。
バルセロナをご存じない方が誤解されるといけないので、あらかじめ断っておくと、バルセロナ旧市街の空気は決して鼻孔をくすぐる類いのものではない。その逆である。見方によれば湿気ぽく不快な匂いと言っても差し支えない。けれども、それは決して頽廃的な匂いではない。僕のような旧市街中毒者には、その匂いこそがあらゆる情景を喚起するのである。
バルセロナの都市としての根源的な魅力は、古くから続くまちなかにこそ宿っている。夕暮れにもなると、どこからともなく人々がやってきて、これが人生だと言わんばかりの晴れやかな表情が広場や街路を埋め尽くす。その表情には、都市に生きることの、あるいは都市人であることに対する無垢な喜びが横溢している。ランブラス通りやレイアール広場といった名所だけではない。ラバルやサンタ・カテリーナの路地裏の、匿名的な公共空間にさえ、都市の昂奮の匂いが充満している。そして、そうした都市性とでも呼ぶべきものが取り戻され、成熟していった背景には、融通無碍な都市再生戦略があった。
本書は、バルセロナの近代都市計画以降の過去と現在を執拗に炙りだすことで、旧市街再生プロセスの実情に迫ることをこころみた。もちろん、本書が描いたのは実態のほんの一部に過ぎない。たとえば、増え続ける移民の問題は本書で扱えるほど単純ではない。都市再生戦略とその帰結としての空間的変容に着目したとしても、その構図から零れ落ちるものはあまりにも多い。けれど、僕が本書で伝えたかったのは、都市計画とは決して事業のための事業を完遂するシステムであってはならず、物理的空間としての都市生活の舞台(すなわち公共空間だ)、そしてその舞台に生きるのは私たちに他ならないという主体としての自覚を回復していくためのプロセスでなければならない、ということである。
本書の原型となったのは、2006年9月に東京大学に提出した博士論文である。力技で書き上げた感のあった博士論文だったが、幸運にもいくつかの学会から奨励賞を頂くことができた。これもひとえに西村幸夫先生、北沢猛先生、大西隆先生、大方潤一郎先生、小泉秀樹先生といった東京大学都市工学科の先生方にご指導を頂いたおかげである。特に、恩師の西村先生、北沢先生からは、プランナーとしてひとつの現場にこだわることの大切さ、そして研究成果を社会に還元することの大切さを教え続けて頂いている。
また、諸外国の都市再生事例にお詳しい矢作弘先生(大阪市立大学)、スペイン研究の先輩である岡部明子先生(千葉大学)と共同研究の機会を持つことで、ひとつの専門に偏ることのない都市研究のグローバルな視点を持つ意識が芽生えた。留学時に、ゴシック地区のプラン作成者であるフェラン・サガーラ(Ferran Sagarra)教授(現・カタルーニャ工科大学バルセロナ建築高等研究院(UPC-ETSAB)学長)にご指導を受けたことで、スペイン都市計画の枠組みからバルセロナの再生戦略を捉える視点を得ることができた。本書にも登場した建築家ペレ・カブレラ氏(Pere Cabrera)は毎回快くインタビューに応じてくださり、貴重なお話を聞かせて頂いた。このほか、自由な資料閲覧をお許し頂いた旧市街区公文書館(Arxiu Municipal del Districte de Ciutat Vella)のスタッフ、よきライバルであるとともによき相談相手でもあったETSABの研究仲間、苦楽をともにした日本からの留学仲間など、多くの方々にお世話になった。記して感謝する。最後に、生粋の快活さで僕に生活の楽しさを教え続けていくれている妻、そして両親にも感謝したい。
日本学術振興会から平成20年度科学研究費補助金(研究成果公開促進費/課題番号205196)の交付を受けたことで、晦渋な論文に過ぎなかった博士論文がこうして出版できることになった。出版に当たっては、タイトなスケジュールの中、多大なご尽力を重ねてくださった学芸出版社の前田裕資さん、井口夏実さん、三原紀代美さんに心よりお礼申し上げたい。生来からの諦めの悪さゆえ、最後までご迷惑をおかけした。彼らの的確で粘り強い編集がなければ、そもそも本書は成り立たなかっただろう。
バルセロナは確かに活気あふれる都市である。けれども、本書で述べたように、都市再生の30年近くの軌跡は決して平坦ではなかった。その再生戦略の思想やプロセスを都市文化の相違に帰着させ、たんなる外国の成功事例として片隅に追いやってしまうのは容易いが、1970年代の困難な状況から旧市街を再生へと導こうとしてきたバルセロナの経験は、今後のわが国まちづくりにとっての教科書にも反面教師にもなりうるだけの示唆に満ちている。本書がその入門書となれば、望外の喜びである。
2009年2月
阿部大輔 |