ワークショップ


まえがき

 「楽しかった。」
  ワークショップを開いた後によくそんな感想をいただく。普通の会議形式にちょっとワークショップ的な趣向を導入しただけでも、そんな打ち解けた雰囲気になる。

  ワークショップは、子ども期に仲間と遊んでいた楽しさに似たような感覚を与えてくれる。他のメンバーからの刺激もあり、創造的な雰囲気で会場を包み、自分の脳が活性化された充足感と全体の一体感に酔いしれたような一時を与えてくれる。誰もに発言の機会があるので、思いもよらぬ人が思いもつかぬ発想で表現する。笑ったり、頷いたり、なぜか人との距離が近くなる。このように、従来の一方向の会議形式ではなく、上下の区別なく、参加者が水平的な関係で相互にコミュニケーションを活発にする方法の妙である。

  「ワークショップ」という言葉が日本で使われ始めて、すでに四半世紀以上になる。まちづくりの場面でも、住民参加の方法論として、各地でさまざまな状況で使われてきた。しかしながら、普及するにつれて混乱も生じ、批判にもさらされている。大きな混乱は、「ワークショップをすれば住民参加」というように受け止められて、ワークショップが住民参加の免罪符のように使われるという問題である。その場に参加した住民は盛り上がり、大いに期待したものの、その後の展開がなく、より失望感を大きくするというような混乱である。なぜ、このようなことが起こるのか。ワークショップそのものへの理解に欠け、適した利用法がなされていない、という点につきる。道具の使い方次第で良くも悪くもなるというように、ワークショップは道具であり、道具の特性を知ることが大事である。

  本書は、そういう意味で、「ワークショップとは何か」、その本質を探ることを中心に組み立てた。ワークショップの源流を探りながら、ワークショップの理論を整理することと、自身が経験した事例を入れながらワークショップの方法を解説した。

  すでにワークショップに関する本がいくつか出版されている。本書は、それらの書物に比べて、幾分理屈っぽいと見受けられるかもしれない。方法論を平易に紹介することは、また誤った使い方をされる危険性も感じ、現代の社会において、ワークショップが必要なところで適した形で応用されていくために、その意味を掘り下げ、注意する点などを浮かび上がらせようとした。先行して発行されたワークショップに関する書物は、ワークショップを新しい方法論として紹介する立場を基本的にとっている。本書では、何も特別な方法ではなく、過去からの蓄積の上にある人類の知の創造的方法の一形態として、日常に気軽に応用できるものとして捉えようとしている。

  ワークショップは、特段新しいものでもなく、人類の知として蓄積されてきた集団の力を発揮する方法であり、そういった要素は、子どもの遊びにも、伝統行事にも、ありとあらゆる日常に本来見出されるものである。そのように特別なものではないという点を、第一に力説したい。そのことを意識するとしないとでは、格段の差がある。ワークショップが身近な生活の場に応用される試行錯誤の創造的実践となるか、またはワークショップという道具に振り回されてしまうか、という差が生じるであろう。人間一人よりも三人寄れば文殊の知恵というように、集団の創造力を生かす工夫は、代々、さまざまになされてきた歴史がある。そういった昔からの知恵を評価し、それらとワークショップを組み合わせていくことが、地域に根づく方法となろう。

  第二に、ワークショップは、未知な世界を広げる可能性もある。個々の人間一人一人の脳が刺激され、個人の有する未知な潜在的力を発揮することにもなる。

  人間の力を信じること。その力を発揮して、多くの課題解決に向かうことが、人間社会の基本的な原理でありながら、今そのことが大変行いにくい状況になっている。裏返せば、社会は必ずしも進歩しているわけではない、ということかもしれない。それ故に、この基本的な原理が、今日重要な意味を持つ。

  平和や人権、環境に関わるグローバルな課題と、身近な地域にも犯罪や少子高齢社会における福祉のあり方など課題が山積みな状況である。社会の変化にどう立ち向かっていくのか。人の連帯が必要とされているが、身近な地域での人の連帯が薄れて、まちづくりにもこのような一般的課題が突きつけられている。ワークショップは、その課題解決に、人間の力を結集して取り組む道具となる。

  第三に、「楽しかった」と参加者が感じる集会。それがワークショップの持つ魅力である。まちづくりも楽しくなければ長続きしない。楽しくなければ多くの人が参加しない。薄れてきた地域の伝統的な共同作業にもそういう楽しい要素はたくさんあった。それを人と共有する安心感があった。とはいえ、昔に戻れ、というのではない。問題が複雑化している現在の状況下では、多様な価値観のもとに多様な主体が存在し、葛藤はつきものである。葛藤の表れ方によって、人は傷つきやすいので、他者との連帯を断ち切ってしまう方向に進みやすい。世の中、便利になり、他人の手を借りなくても一人で生きていけるように思い、葛藤を恐れて他者との関係を切っていく。しかし、その方向は次第に他者という存在を忘れてしまうような錯覚を人に与えてしまう。ワークショップは、他者との出会い、異なる価値観との出会いでもあり、社会の持つ葛藤に向きあう主体を形成する契機ともなる場を提供する。それも楽しさのうちにである。葛藤も対象化して、人と共有して解決を目指そうとするなかで、何らかの方向性が見出されてくる。

  ワークショップを合意形成の方法というような誤解がされているが、以上の主な特徴からわかるように、決して合意形成を目的とした方法ではない。

  専門が専門の枠の中に閉じこもる発想は、現代に効力を発揮しない。ワークショップを、まちづくりワークショップ、演劇ワークショップ、癒しのワークショップと類型化することも可能であるが、筆者には違いよりも類似性にこそ意味があると思われる。本書は、根源的に人間と集団の知恵をいかに発揮して問題解決に取り組むか、ワークショップはそういう助けとなる道具であるというスタンスで、今日、NPOなど市民主体の新しい公共の担い手に役立つ道具となるような期待を込めてまとめた。

  特に、今日、競争原理が人間を活気づけるという、ネオリベラリズム的考え方がはびこっている。強いものが弱いものを食う、他を押しのけて勝ち残っていく、そういう市場経済を支配する論理が、福祉や教育、環境など他の領域にじわじわと浸透している。NPOやまちづくり組織は、本来ならば、そういう競争原理とは対極にある協働の原理に立つものである。他者とつながり、他者との討議や協働の営みによって新しい価値を生み出していく。ワークショップが、そういう集団による創造的社会を再び形成するための道具として広まっていくことを期待したい。