街づくりの変革/はじめに


 この本は僕が今まで書いてきたもの、話してきたことの集成である。必然的に断片的になり、その底を流れる僕の考え、あるいは僕がそう考えてきたと思いこんでいることの筋道が必ずしも明瞭ではない。だから始めに一番基本的な考えの筋道をスケッチしておきたい。

街が出来る過程に介入する

 一九六五年秋、メキシコの公社が造ったインデペンデンシアという住宅団地を歩いていた。緑豊かな敷地環境や、煉瓦を多用した優れたデザインの中層の住宅棟が織りなす居住空間は見事なものだった。日本の公営や公団の団地との余りの質の格差に驚きながら、深く考え込んでいた。メキシコ市在住の友人フリオ・ガルシアが自信ありげに案内してくれていた。

 当時の日本は、近代化路線をひた走りに走っていて、建設省住宅局にいた僕も、未だ戸当たりの住宅面積が四〇数平米で、外構には殆ど金をかけることが出来ない公共住宅の姿に情けない思いをしながらも、何時かまともなものが造れると固く信じながら働いていた。日本より明らかに貧しいはずのメキシコで、こんなに質の高い公共住宅がなぜ造れるのか、ガルシアの話を聞きながら、街を造っていくプロセスの考え方の差異が見えてきた。この住宅団地の住人は良く聞けば、むしろ特権階級に近い人達であって、公共住宅と言いながら、実態は高級住宅地だった。しかし、彼らは、欧米の高い水準の住宅地を見ていて、優れた都市資産を形成していくには、また直ぐ再開発をしなければならなくなるようなものを、造るべきでは無いという信念を持っていた。だから、結果として高級住宅地になっても仕方が無いと考えている様だった。実際、日本でもこの種の考えを持つ人もいて、そのような観点から公共住宅の貧しさが批判に曝されていた。

 だが、このような政策が、都市全体の住宅の姿をどう変えていくのか。当時のメキシコ市は未だそれほど酷い状態ではなく、ガルシアの考え方を直ちに否定できるような状況には見受けられなかった。

 そこからベネズエラのカラカスに赴き、カラカスで都市計画の仕事を手伝う事になった途端、日本では想像も出来なかった都市の状態を目の当たりにする。カラカスの人口の四分の一とも三分の一とも言われる人々が、市の丘陵地に不法占拠で張り付き、ランチョと呼ばれる掘っ立て小屋の大群落を形成している。いわゆる近代セクターと呼ばれる市街地は日本より遙かに高い水準の都市なのに、これとは全く違う別世界が目の当たりに併存しているのだ。しかも、その一部を“再開発”して当時としては国際的に見ても超近代的な住宅団地を既に建てているが、そこは全く管理不能な状態に陥っていて、警官すら単独では入らないという危険地帯になっている。

 日本と同じように開発主義の段階を駆け上がっている途中で、もし、ガルシアのような理想主義を追えば完全な二極分化に直面し、社会的にはむしろ不安定などうにもならない都市が出来てしまうということは明らかだった。開発主義の段階での都市づくりの在り方としては、どんなに途中過程の姿が貧しく見えようとも、日本型の漸次段階的改良型ともいうべき戦略の方が遙かに賢明だったのではないか。実は日本でも七〇年代初頭には、東京や大阪でこのような二極分化の芽が膨らみかけ、近代的な法治構造への信頼が大きく揺らいだ時期があったけれども。

 都市計画もまた、このような幅広い立場で見た公共政策の部分的表現に過ぎないことは明らかだった。道路とか港湾の建設のようなインフラ整備の立場からの都市計画では見落とされがちな社会政策的な観点であるが、僕には最初から避けて通れない問題として存在していた。

 それにしても、日本が、木造市街地から徐々に高密度な鉄とコンクリート市街地に切り替わっていくプロセスの管理に成功したとは言えない。一九六〇年代に東京タワーから眺めた東京都心は緑豊かな田園的市街地だった。一戸一戸の屋敷の庭が広く大木も数多く存在した。一九六七年に、サンパウロの市街地を高層ビルの屋上から眺めて、東京都心もこのように乱雑なコンクリートジャングルになるのかと思った。おそらく街を造っていくプロセスを上手く管理できず、道路もないまま高層ビルが建ち並んだり、街としての連続性を全く欠いたビル群の集積になってしまうのではないかと恐れた。そして今、事実そうなってしまっている。

 一九九一年に『日本の都市再開発史』を\社()全国市街地再開発協会で纏めたときにも、僕は、都市全体が、木造の前近代的な市街地から、近代的な市街地へ脱皮していく全過程を問題にして歴史を書くべきではないかと主張したが、受け入れられず、結局、極めて限定的な点にしか過ぎない法定の事業箇所の歴史になってしまった。

 ボストンの再開発の大立て者だったデビッド・クレーンは、\1\0\0\0デザイナーズと言って、再開発のプロセスは結局多数の人々の意志と感性の問題だと主張していた。問題はこのような多数の人々の意志と主体性をいかに上手く組み上げて秩序ある都市空間を造り上げていくかという、包括的な意志と実践なのではないか。

 僕が過去四〇年間に関われた仕事の幅は極めて狭く、街づくりのホンの一部分に触れただけだが、その中でも、都市計画に関わる建築規制とか建築誘導に関わった時間が多かった。それは、組織が僕にそのような仕事に携わることを要求したことでもあったが、僕の強い関心事でもあった。都市空間の形成という時空間の全体の動きの中で、今、自分は何をやっている、どういう立場で、どんな目的や手段を持って介入しようとしているのかということを、努めて意識してきたように思う。全体の動きの視界が全く不透明になってきたけれども。

 僕が、狭い意味に閉じこめられがちな都市計画という言葉ではなく、街づくりという曖昧な言葉を多用する理由もここにある。街づくりという言葉には、物理的な空間的な言葉を越えた社会的な意味が篭められているし、公共事業、公的規制、行政の手段に過ぎない事業の実現のための計画といった狭い都市計画を越えた、本来の意味での都市計画に近い響きがあるからである。

近代化の呪縛からの解放

 一九六七年元旦に、僕はブラジリアのホテルの窓から茫漠たる都市予定地の姿を眺めながら近代都市計画が終わったことを実感していた。

 大学でアメリカ研究の一端としてアメリカのニューデール、特にTVAとその理事長であるリリエンソールについて学び、資本主義の牙城においてすら計画が必要であり有効であることを学んだ。その後、日本で高山英華先生の都市計画を学んだ。計画の神話を信じていたから日ソ学院に通ってロシア語を勉強し、ロシアにも数週間滞在して都市計画の実状を見てきた。(その結果、計画の神話はあくまで神話に過ぎないことを目の当たりしてそれ以後フォローすることを止めた。)一九六二年アメリカに一年いて、黄金時代をやや過ぎたペンシルヴァニア大学の計画学科で学んだ。この時期が丁度アメリカでは都市計画の転換期に当たっていた。確かマスターを出たばかりのトム・ライナーの「ユートピアの終わり」というマスタープラン主義批判の論文が大きな話題になっており、ハーバードでは社会学者のハーバート・ガンスが連邦補助の再開発事業への厳しい批判を繰り広げていた。事実再開発事業から修復へという流れが出来始めていたし、アメリカにおいてすら歴史的な都市遺産に関する意識の高まりが出始めていた。少なくとも伝統的な空間秩序に合わせた密度や形で再開発をするという萌芽的な事業が出始めていた。ポール・デビドッフという法律出身のプランナーが、都市計画家は住民の弁護士たるべきだという主張をすると共に、マスタープラン主義に対抗する、部分追増主義とでも言うべきインクレメンタリズムの主張を繰り広げていた。イアン・マッカーが「自然と共存するデザイン」という主張を掲げ、ランドスケープ・アーキテクチャーの世界を一気に広げると共に、都市と自然生態系との折り合いが問題になり始めた時期だった。

 近代化の路線、追いつけ追い越せ路線をひた走る日本から来た僕には、開発途上段階の日本とアメリカとの差ばかりが目についたが、当時にあっては、単純な近代化の直線的な理論が支配的で、日米の差も表面では発展段階の時間的な遅れとしか認識できないのが都市計画の背景だった。

 だが、このような単純な経済史観では絶対に吸収できない差異があるという予感をアメリカで抱いた後で、一九六五年から二年間ベネズエラで都市計画の仕事をし、日本とアメリカとベネズエラを見比べるという機会に恵まれた。都市の形成にとって、経済的な発展段階は単に一つの軸でしかなく、もう一つ、文化的なあるいは文化人類学的な軸が重要な存在としてあるという確信を持つに至った。僕の中で「近代化」を日本文化の枠組みの中で相対化する努力が始まった。同じ資本主義、民主主義の構造を持った国であっても、日本のそれは違う動物だということ、その視角から日本の都市計画を見直す事が始まった。

 帰国後、友人達と日本土人会という勉強会を作って議論を始めた。その議論の核心は街づくりの中心概念の中に、むしろ「断絶」を重要な価値としていた近代に対峙する形で、広い意味での連続性という概念を再び持ち込む事だった。当時にあっては風土、歴史との連続性が強く意識されていた。それが僕のその後の街づくりの仕事の一つの基礎的な土台になっている事を指摘しておく必要がある。

 僕はこのような道筋で近代化の呪縛から解放されて来たと思っている。だから、近代化に対する相対化の理論には殊の外興味を持ち、ベネディクト、中根千枝、山本七平などのいわゆる日本人論の類は勿論、村上泰亮、公文俊平等の経済学者等の理論にも強い興味を持っている。

 さて、以下に続く文章がこのような僕の意識とどのように呼応しているか。

座標が動く

 一九八五年五月八日の夜、五二歳の誕生日に、僕はジャマイカの首都キングストンのウィンダムホテルで一人食事をしながら、これからの行く末を考えていた。その年の夏か秋には建設省を辞め、どこかの県の部長に出されそうなことが判っていた。

 建設省や中央官庁全体が幕藩体制そのままで、縦割りの利益集団化していることに嫌気がさしていた。一九六〇年に僕が建設省に入ったときにも、都市計画をやる以上、法律とか土木とか建築とか公園とかの職種に身も心も属し切って部門別の利害に拘るのは拙いのでは無いかと考えて、同期の連中と四次元グループなるものを結成し勉強会を続けてきた経緯もある。しかし二〇年経って事態は益々悪い方向に動いているようだった。

 一九八〇年代から始まった、レーガン・サッチャーリズムへの関心は高かった。たまたま建設省の官房政策企画官として、中曽根民活の第一弾の仕事にも携わる事が出来、世界の大きな動きが良く判った。人生七〇年、八〇年時代に五二歳でもし建設省の系列に残れば、幕藩体制を引きずったまま生涯を終えることになりそうだった。もし民間企業活動の世界が広がれば僕が持っているノウハウが生かせるかも知れないとか、時代が大きく動けば都市計画の新しい理論の体系化が必要かも知れないとか、勝手な楽観的な憶測の下に、幕藩体制を外れる決意をした。しかし、齢五二歳でそんな暢気なことを決意するには、相応のきっかけと場所が必要だと思っていた。丁度、その時ジャマイカで国連ハビタットの総会があり、日本代表で出席しないかという話があり、ついでにベネズエラを再訪する条件でキングストンに出かけたのだ。ここで僕は決意を固めた。

 その後はや、一三年、その間に起こった変化は僕の想像を遙かに絶する激しいものだった。いわゆる五五年体制が崩壊し、昭和一六年から始まった国家総動員体制の枠組みも大きく揺さぶられている。しかし、何よりも大きいのは、役所を離れ、都市開発の実践的な場に身を置いて現実の社会経済の動きを自由な立場で考えられるようになって、遅まきながら自らの座標軸を固定して考えるデカルト・ニュートン的な思考では現実世界の理解は不可能であって、自らの座標軸自体の移動を前提とした、散逸構造の世界の中で全てを考えざるを得ないことがはっきり認識できた事だった。

 街づくりの上で、資源問題、エネルギー問題、環境問題などが重要なテーマになってきた。自然生態系の循環を考慮に入れた街づくり技術が要求されるだけでなく、廃棄物処理などを巡り、リサイクル技術を視野に入れつつ持続可能な開発思想への切り替えが求められてきた。

 しかし、社会経済の実態が流動的に動き、政治的な安定性を欠き街づくりの基礎になる条件が不透明で予測不可能になってきても、やはり現実を誠実に分析し、現在の動向を探り、未来を真剣に予測しておくという作業の意義、重要性が薄れたわけでは無い。計画をするという作業、というよりは誠実に出来るだけ未来を読むという作業は不可欠なのだ。ただ、この複雑系の社会の中で、現在から未来を読めると断定し、未来の計画を作ってそれを固定し、そこから遡って現在の行動を規定するといった「近代的な」思考の形態が破産しており、いわゆる計画の神話が崩壊したというだけだ。だが、街づくりにおける現時点での決断は不可避であり、市場主義に従う限り、このような決断を素早く下す必要性は増しこそすれ減ることはない。だから、未来への読みと現時点での決断との関係をどう整理し直すのか。

 産業構造、価値観、ライフスタイル、交通通信の技術体系等の激動にたいする認識を深め都市計画の前提になっている経済社会的なパラダイムを組み直さない限り、最早有効な都市計画が出来ないということもはっきりしている。街づくりの専門家としては、とんでもない大風呂敷を広げるドンキホーテ的な試みであるとの批判を受けても、敢えてそれをやらない限り実効性のある内容を持った発言は出来なくなっている。

 さらに都市計画における公共性の問題がラディカルに問い直され、都市計画は市民参加や市場主義を前提とした上で、その決定主体が地方に分権化されることが確かになってきた。地域から出発し、地域が考え、計画し、自ずから決定する本当の意味での都市計画が出来る可能性が出てきた。中央集権的な縦割りの都市計画からはこぼれ落ちていた問題を全て捉え直し、地域で総合的に都市を考え直す可能性が出てきた。都市計画の主要なテーマも、国家目的であった経済振興のための地域の総動員体制の中の都市計画から、地域の住民の生活の実質的な維持改善、生活環境の維持改善と地域内発型の産業振興を主目標とする都市計画に変わりつつある。都市計画が本来の意味を取り戻し、広い意味の街づくりという概念に対応できるようになりつつある。生活都市計画への移行が現実のものになりつつある。

 しかし、一方、地方都市では、中心部にその備えもないのに、自動車が野放しに利用されているので、街は拡散し、街の人口は空洞化し、街の家業型産業の担い手はいなくなり、土地の利用を地権者の意向のままに任せているので街は空き家だらけになり、空地化し、駐車場だらけになっている。従来、都市の核として、地域自治の培養器であり地域文化の創造拠点であり得た地方都市の中心部の街は消失しつつあり、街であった都市は、自動車で結ばれた断片的な都市施設の緩いネットワークの塊に過ぎなくなりつつある。

 同様に巨大都市の中でも、個人は、いきなり商業主義の巨大な拠点とネットワーク、それにバーチャルな世界の中に投げ込まれることにより、個人的な接触と濃密な人間関係を創り出せる場を失い、個人の主体的な生活活動や文化活動を受け入れ、育てるべき街は同様に消滅し、根元的なところでの人間疎外が発生しつつある。

 丁度自然生態系が生物的な人間にとって必須の環境であると同様に、街は文化的な人間にとって必須の環境なのではないか。「沈黙の春」の危機と同様、「賑わい無き都市」は人間文化にとって危機的状況なのでは無いのか。

 「街は要りますか」という僕の問いかけは、単に街という空間的な属性を持った場所の再生という意味だけではなく、おそらく個人と家族の外に、身近な地域社会があり、それが人間心理の安定と文化的な創造力の源泉となる場所なのだという根元的な命題なのだと思っている。近代の初頭に、ゲマインシャフトとゲゼルシャフトという概念で社会の基本構造を裁断し、近代における諸活動の基礎理論が創られたように、今、単一地球社会の成立と共に、新しい地域社会像が求められているのではないかと考えているのだ。

 このような問題意識の断片が以下に語られている。勿論、今後の僕のテーマでもある。

造る意志

 一九九五年三月、僕は幕張ベイタウンの街開きに招待された。本来このような晴れがましい儀式が嫌いな僕も、その日は本当に嬉しかった。招待された者の一員として、テープカットの後、出来上がったメインストリートを初めて歩きながら、なぜ、このプロジェクトがこんな形で結実できたのか思いを巡らしていた。

 このプロジェクトの素晴らしさは、単にこのプロジェクトの空間計画のユニークさや、実際に出来てしまった街の出来上がりの良さに有るわけでは無い。街の総体を総体として企画し、計画し、デザインし、しかもそれが実際にその通りに建ち上がっていくという社会過程が、ある一時期に過程として成立しただけでなく、それがおそらく今後も引き継がれ、この街が物理的に完成するまで継続されるだろうという強い期待を抱かせる事に成功していることだ。さらに上手くいけば、企画の中に仕組まれている、入居後の住民の参加を考えた街づくりシステムが始動できるかも知れない。

 これこそ僕が考える街づくり、本当の意味での都市計画の実現の過程の一断面だと考えるからだ。

 新しい空間計画を考え計画書として纏めることは容易だ。だが、通常はそのような計画書の内容は時間が経つに連れどんどん変質し、最後は跡形も無くなってしまうのが普通だ。なぜなら、当初の計画に篭められた理想を現実に着地させる過程で、政治や行政の責任者が代わり、あるいは代わらなくても当初の志を無くしてしまうし、そうでなくても実際の都市づくりの事業は、縦割りの行政分野に区分されているから、各々の分野の都合や考え方が優先し、総体としての空間計画を守り続ける動機を持った人が何処にもいなくなるからだ。

 ベイタウンの場合、なぜそれが、そのような通常の轍にはまらずに済んだのか。まず、千葉県の知事が代わらず、しかも高い志を持ち続けているので、部下の責任者である、歴代の企業庁長や地域整備部長がその志に沿うことを常に意識しているということがある。だから、庁長や部長が積極的にそれ以前の成果を引き継ぎ発展させる強い動機付けを持っている。そして、部下の職員の中にも、このプロジェクトの志に共鳴し、職責を越えた熱意で仕事に取り組んできた人々が常に存在した事実がある。

 勿論住宅の建設事業そのものは民間企業の責任だから、どんなに役所が頑張っても市場が受け入れてくれない商品を造って売るわけにはいかない。極めて激しいやりとりが企業庁と民間事業者の間にあったことも事実だった。特に当初はバブル期の最後で民間も事業的に強気であり得たが、バブル崩壊後の難しい時期になると、実際の担当者はともかく、実験的な商品を売りだすことについての社内的な抵抗は大きかったに違いない。それを乗り越えられたのはやはり千葉県の強い姿勢があったればこそだと思うが民間企業の協力、提携の姿勢も欠かせなかっただろう。

 しかし、実際に都市空間の質を確保する上で決定的な役割を果たしたのは、介在したプランナーや建築家の集団の力だったと思う。逆に言えば、質の高い専門家達の意見が決定的な瞬間に利いてくるような仕組みを千葉県が作っていたということも言える。このような場合、日本の行政や民間企業の力関係の中では、第三者である専門家の力など多寡が知れたもので、きっちりとした仕組みが予め組まれていない限り、総体としてのデザイン・コントロールなど成立すべくも無いからだ。そして、そのような稀にみる機会を与えられた専門家集団が、信じられないくらい熱心にこの仕事に取り組んできた事も事実である。

 街づくりを進める一連の流れの中で、どうしても必要なのは持続的な意志、行政能力と専門的な機能である。行政能力には、企て、繋ぎ、納めるという街づくりの段階に応じた異なった能力が要求され、これが通常の行政の中で上手く配置されるということは奇跡に近い。さらに、日本では通常専門的な機能を内部に抱えている事は殆ど無い。だから、外部の専門家の力を借りざるを得ないのだが、通常は専門家としての見識や理念を通そうとすると行政に忌避されるので、心ならずも行政の手足になって動くより仕方が無く、高い専門的な見識や能力が発揮される事は稀である。

 政治と行政の責任者の強い持続的なリーダーシップ、行政内部の能力、連携と連続性、参加した民間企業の提携の姿勢、外部専門家への信頼を伴った巧妙な利用といった全てが上手く揃って、初めてベイタウンの成功があったと考えている。

 しかし、何より大事なことは、時代に先駆け、時代に取り残されないような優れたプロジェクトを造り続けたり、出来上がった優れた資産を維持更新させていく集団的な意志であり、これなくしては、どんな優れた街づくりも成立しないということだ。これこそ街づくりの本質であり、その持続的な流れの積み重ねを沢山の人々が関与しながら引き継いで行くことこそが、本当の街づくりだと言えるのだろう。その中で専門家の果たせる役割は必ずしも大きいものではない。しかし、もし、このような流れが起これば、あるいは幸いにしてそのような流れを起こすことが可能なら、その時専門家の役割は飛躍的に大きくなると信じている。

 ベイタウンでは、幸せにも僕はその流れの一端に乗ることが出来た。そしてこのような流れが方々で沢山起こってくることを期待しながら、仕事を続けているというわけだ。

この本の構成

 この本は、僕が今まで話したり書いたりしてきたものの中から、現代という時代性と将来の見通しに関わる点で、現時点で意味がありそうなものを選んで、それを編集、訂正補筆したものである。

 第一部はいわば自己紹介の部分で、僕が、おりにつけ話したことの記録である。大雑把ではあるが、今まで述べたような事を、僕が実践的にどう考えてきたかという個人史を交えた記録になっている。その意味で、第二部以下の文章と若干重複するものもあるが、敢えてそのままの形にしてある。

 第二部以下は専門誌などに掲載された雑誌論文を再編集したものである。テーマに従って並べてある。若干古くなったものあるが、現代においても十分議論の対象になり得るものに絞って再録されている。

 ―感謝の言葉―
 まず、このような分野に僕を引き込み視野を広げて下さった、高山英華先生始め高山門下の諸先生方への感謝の念を忘れるわけにはいかない。

 この本が成立できたのは、もとより、長い間に渉って指導を受け、一緒に仕事をしてきた、建設省、茨城県、住宅・都市整備公団等の先輩、同僚、後輩の方々のお陰である。日本社会の中では馴染みにくい我の強い一官僚を長い間、良く庇護していただいたものだと感謝している。

 また、僕が建設省から離れた後も茨城での仕事場を与え、地方からの視角を常に僕に持たせ続けてくれた常陽銀行の青鹿さん始め、\財()常陽地域開発センターの方々にも深く感謝の念を捧げたい。

 この本を直接纏めるきっかけを作って下さった石堂威さん、本に纏める下準備をしていただいた森戸野木さん、僕の考えを整理する上で常に辛抱強く議論の相手になり、僕を激励し続けてくれた河合良樹さん、そして読みやすい形に編集して本に仕上げて下さった学芸出版社の前田裕資さんに特に感謝の念を伝えたい。


蓑原敬/学芸出版社
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