私、 藤島亥治郎の息子で、 また綜芸文化研究所の主任研究員をさせていただいている、 藤島幸彦でございます。 今日は短い時間でございますが、 くつろいでお楽しみいただければと思っております。
さて、 今日の会は藤島亥治郎の白寿記念講演会と銘打っておりますが、 内容は中山道です。 受け付けにも置いておりますが、 父が長年のライフワークにしておりました『中山道』という本が、 去年の秋にできました。 これは中山道の歴史について、 宿場はもちろんですが、 中山道と言われるように「道」なのですから、 その途中も大切にしながら、 戦後半世紀にわたって歩いて調査、 研究した成果をまとめたものです。
はじめに
『中山道』表紙(東京堂出版) |
なお、 なんといっても満99歳でございます。 そんななかで元気をふりしぼって話をさせていただきます。 多少聞き苦しい点、 あるいはわかりにくい点もあるかと思いますが、 本人は至って気楽に、 気ままに、 あまり難しい会にしたくない、 皆様と親しくお話をしていく、 そんな会にしたいというふうに申しております。
ですからその話の真髄を聞いていただいて、 「ああ、 こんなことを言いたいんだなあ」ということを想像していただいて、 皆様のお気持ちで広く受けとめていただけたら、 ありがたいと思います。 これは家族としてのお願いでございます。 では、 短い時間ではございますが、 どうぞこれからよろしくお願い申し上げます。
三船康道:
続きまして、 藤島先生をご存じない方も大勢いらっしゃると思いますので、 千葉大学名誉教授の大河先生に、 藤島先生をご紹介いただきたいと思います。 では、 よろしくお願いします。
大河直躬:
大河でございます。 藤島先生のご業績は多くの方がご存じだと思いますが、 あらためて簡単にご紹介申し上げます。
先生は1899年、 明治32年に盛岡でお生れになり、 東京の浅草、 弥生町、 根津でお育ちになりました。 お父さまは日本画家でいらっしゃいました。 大正12年に東京大学の建築学科をご卒業になって、 当時の朝鮮の京城の高等工業の助教授に赴任され翌13年に同校教授、 兼朝鮮総督府技師になられました。 ここで恩師の関野貞先生のご指導のもとに、 朝鮮建築のご研究をなさいました。
昭和4年に東京大学の助教授に着任され、 昭和35年まで、 教授としてお勤めになりました。 その後、 東京大学名誉教授として芝浦工業大学の教授も10年間なさいました。
先生の建築史のご業績は非常に多ございまして、 朝鮮建築史から日本・西洋のいろんな建築の歴史を研究されました。 ちょうど戦争中に出ました『桂離宮』という御本が、 日本ではブルーノ=タウトに次いで出た桂離宮についての本でございます。 それ以後、 『塔』、 『社寺』、 『住居』など、 いろんな本を書かれましたが、 最近よく読まれておりますのは『町家歴訪』という本であります。
ご自分の思い出の記もたくさん書かれております。 その傍ら文化財保護のための文化庁の専門委員を昭和55年までつとめられました。
先生は研究だけではなくて、 デザインの方も非常に巧みで、 お仕事も多うございます。 代表作として大阪の四天王寺の五重の塔を中心とする建築を飛鳥様式で、 復原、 設計されました。 これによって昭和43年に日本芸術院の恩賜賞を受賞されております。
いくら挙げても限りがございませんから、 このくらいにいたしまして、 私の先生についての印象をひとつ述べさせていただきます。
私は昭和24年に大学に入って、 すぐに先生の講義を受けました。 当時、 先生は50歳でした。 今でもお元気ですが、 当時は壮年の意気軒昂の頂点にいられた頃でございました。 私が一番びっくりしたのは、 最初に入学して学科内の先生方の紹介とちょっとしたスピーチがあった時のことですが、 藤島先生は黒板に大きくドイツ語で『Baukunst(建築)』と書かれ、 建築が芸術である所以を熱烈に論じられたことです。
また、 法隆寺の金堂の壁画が焼けて1年ちょっとたった時だったのですが、 関西へ見学旅行にいったとき、 金堂で模写のお仕事をされていた絵描きさんと、 焼けたことを惜しんで涙を流しながら論じておられた様子を、 今でも覚えております。 私はあまり勤勉な生徒ではありませんでしたので、 ご講義の内容よりもそういうことの方をよく覚えております。
当時の先生は、 今でもそうですけれど、 ベレー帽を被って煙草をきゅっとくわえておられました。 今では煙草はほとんどのまれませんが。
私たち学生は藤島先生のことを『亥チャン』と呼んでいました。 だいたい先生のうちの3分の1くらいの人はチャン呼びでした。 やはり人によって違うんです。 なにか親しみがあるということだろうと思います。
一年に一遍くらいお伺いすると、 先生は今でも11時頃に起きてこられて、 「今朝は2時3時まで原稿を書いていた」とおっしゃいます。 今でも毎日明け方まで原稿を書いて、 それからお休みになって、 お昼前に起きてこられるということです。 いや、 私もあれだけ長寿で、 あれだけ仕事をできたらと思うのですが……。
今日は白寿を、 まさに数えで百歳の先生のお話を伺うことができるのを楽しみにしております。
以上、 簡単でございますけれども、 ご紹介に代えさせていただきます。
三船氏:
それでは只今より、 藤島先生の講演会を始めたいと思います。 それでは藤島先生、 よろしくお願いいたします。