はじめに

 

 


 ランドスケープという語が、環境の計画・設計・管理に関わる様々な分野において頻繁に流通しはじめたのは、今から10年ほど前、ちょうどバブル経済華やかなりし頃ではなかったかと思う。為替相場の円高と経済活動の国際化という要請に後押しされて、海外のデザイナーが大挙して押しかけてきたことが直接のきっかけだった。ほぼ同時期にグローバルスケールで台頭しはじめた第二次の環境問題ブームとも、どこかで通底しているかに思わせる語感も一役かっていただろう。いずれにしても、米国の大学院への進学とその後の設計事務所での修業のために4年間ほど日本を留守にしている間に、この語の流通範囲が異常に拡大していたことには、帰国後すぐに驚きとともに戸惑いを感じたことを記憶している。
 以後、この語は、建築・土木・造園・都市計画をはじめ、生態学や地理学、果ては文化人類学にいたるまで、およそ空間や環境を直接・間接の対象とするあらゆる分野に取り込まれ、様々な角度から伸びてくる手でもっていじくりまわされて、手垢がつきはじめている。しかしそれでもなお、とりあえず「ランドスケープ」をキーワードとしておけば、何をつくろうとも、何を言おうとも、社会的に容認されるかのような風潮と当事者の錯覚があったことも一方の事実である。
 ランドスケープアーキテクトを自認する、ある者は、このような傾向を自らの職域が拡大してゆく兆し(これは幻想であったことが判明しつつある)であると歓迎し、またある者は、自らの領域が他分野の専門家に侵犯される(これは既得権の範囲を拡大解釈したにすぎない)ことへの危惧を表明する。しかし、職能の全体を見渡せば、手垢のつきはじめた「ランドスケープ」を前にして、どう対応していいかわからない、内心忸怩たる思いを募らせながらも、具体的なアクションをおこすための確固たる手がかりを見出せない、というのが本当のところではないだろうか。このような賛否と愛憎が相半ばするアンビヴァレントな態度は、実は、ランドスケープアーキテクチュアという職能が、この国において展開する過程で内在させてきた一種の両義性に起因していると考えたほうが自然であるように思う。手垢のつきやすさもまた、そこに起因しているだろう。
 では、日本のランドスケープアーキテクチュアにみられる両義性とは、具体的にどのようなことを意味するのか、いくつかの対をなす概念を挙げてみよう。まずもって明らかなのは、ランドスケープに表現されたものの中で「虚」と「実」、つまり虚構と現実、フィクションとリアリティの二義が同居する状態である。とりわけランドスケープアーキテクチュアの本家本元を自認する造園の領域では、作り出すものの根拠をめぐって虚実の両犠牲が深刻な(と感じていないことも多いが)自己矛盾となってあらわれることがある。理想とする空間を造出しようとすれば、現実の環境との乖離を意識せざるをえない。特に近代の都市的なコンテクストではそうである。そこに理想的な空間を囲い込んだとしても、それは虚構でしかないのだが、その虚構性そのものの価値が、逆に都市的な環境の現実の中で評価されるという構図ができあがってしまう。元来、「庭」という現実の生活空間と「園」という虚構の理想的空間を意味する二語をくっつけた「庭園」を具体的な対象としてきた伝統的な造園の世界では、否応なくこの両義牲をひきずっているともいえる。
 二つ目と三つ目の対概念は、相互に関係する一組のものとして考えておくとわかりやすい。「美学」と「科学」、「風景」と「環境」、または美学的概念としての風景と科学的概念としての環境、という対に置き換えてもよいであろう。アラン・ロジェが指摘するように、少なくとも欧米では、この二組の対概念の区分は比較的はっきりしている、あるいはさせようとしていると考えてよさそうである。「風景」(英語でlandscape、仏語でpaysage)は、本義的には近代初頭の絵画運動の影響下で発生した視覚を媒介とした西欧美学の概念である。これに対して「環境」は、E・ヘッケルの有名な一文、すなわち「エコロジーとは、広い意味での生のあらゆる条件を含む環境と有機体との関係の科学全体を言う」との見解が示された一九世紀中葉から生態学との関係が強化され、客観的実証科学の概念へと大きくシフトしている。美学のカテゴリーにある「風景」と科学のカテゴリーにある「環境」、日本語にしてしまうと姻戚関係にあるような語感をもつ二つの概念の間にある隔たりを特に意識もせず使用できてしまう、あるいは同義のものとしてしまうところに、この職能のもう一つの両犠牲が見え隠れする。
 さらに四つ目は、ランドスケープアーキテクチュアの職能成立を要請した「近代」という時代状況が生みだした結果に対して、おしなべてアンチな態度をとること、つまり「反近代」的なスタンスを維持することに、自らの存在理由を求めるというところに現れている。例えば、近代の工業化社会がもたらした環境の非人間性に対して、緑を反近代の象徴に仕立て上げ、それを楯に独自の領域形成をはかるという態度があっただろう。これは、緑の絶対的価値、必要不可欠な必需品としての位置づけを過度に増幅させる結果を招き、近代の科学技術を享受した他の技術体系、とりわけ建築との間に共有するべき価値観を形成しにくい状況をつくりだした。このような「近代」に対する両義的な態度は、ポスト・モダニズムに関わる諸現象にも現れている。つまり、この国の造園やランドスケープアーキテクチュアに関するかぎり、ポスト・モダニズムに対応しうるものが、作品においても言説においても不在である。
 ランドスケープという言葉につきはじめた手垢を洗い流し、ランドスケープアーキテクチュアの職能像に則って、この語の本来の意味を言説でもって定義するという作業を進める過程では、ランドスケープにまとわりついたこの両義性の意味を逐一検討するという手続きが不可欠である。そして、おそらくそれはとてつもなく厄介な作業である。むろん、とても私ひとりの手におえる作業ではない。そこで本書では、職能の全体像を様々な角度からいくつかのキーワードを通じて垣間見る、そのための視座、つまり、ものを見る立場の在処とそこから見える像を縁取るフレーム、それらを支える価値観について整理してみることを試みた。これらいくつかの視座から、用意されたフレームに縁取られて見える職能像の中に、ランドスケープアーキテクチュアの両義性が見え隠れすることを期待したい。
 個々のキーワードは、ランドスケープデザインに固有のものというよりも、むしろ関連する分野との間で共有されるものであった方がよいと考えて選んだつもりである。本書では、それらを八つに集約し、それぞれが一つの章をなすような構成をとった。そのため、それぞれの章の完結性が高まっているぶん、各章の間の相互連関を読みとることが困難になっていることは否めない。また、これら八つ以外にも多くのテーマやキーワードが存在するはずであり、それぞれについて固有の視座が形成されるであろうことは言うまでもない。
 なお、本書を通じて表明された理念を支えている基礎的な知識、具体的な事例等については、佐々木葉二、三谷徹、登坂誠の三氏とともに1993年頃から断続的に進めてきた研究会とその成果をまとめた一連の論説に依拠する部分も少なくない。彼らとの議論を経て、本書の骨格をなす考え方の基盤ができあがったと言っても過言ではない。一方においては、本書において言及されている様々な事象や命題についての解釈に、私個人の独断と偏見に基づくものも数多く含まれている。議論の余地を残す部分もあるかと思われるが、むしろそれらを契機としたコミュニケーションを誘発することも、この本の間接的なねらいの一つに掲げてよいと考えている。

 

 


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