ニュータウン再生
住環境マネジメントの課題と展望

おわりに

 私と千里ニュータウンとの出会いは、1969年の夏だったと思う。大学紛争のまっただ中に京都大学工学部建築学科に入学したものの、授業が行える状況にはなく、自主ゼミを一緒に開いていた友人が千里ニュータウンの見学に誘ってくれたが、私は行かなかった。当時のマスコミの影響もあり、千里ニュータウンは、箱形のアパートが建ち並ぶコンクリートジャングルの街と思って、興味がなかったからだ。
 大学院の修士課程を終える頃になると、オイルショックによって就職の道は閉ざされたが、唯一内定をもらった千里ニュータウンの設計事務所に1976年の春に就職した。数年後に都市計画部門へ、さらに数年後に研究所へ配属になり、都市計画・まちづくりに本格的に携わることになった。
 研究所が千里ニュータウンに立地していたこともあり、千里センター、大阪府、吹田市・豊中市などから、千里ニュータウンに関する調査・計画・研究を受託するようになった。まちびらき25周年にあたる1987年には、海外6カ国からの参加者を招いて「ニュータウン世界フォーラム」が開催され、企画・運営に参加した。内外の研究者との交流を通じて、住民の参加によって団地の再生や街の管理が行われている実態を知り、いずれ我が国でもこのような時代が来ることを予感させられた。
 数年後に、大規模ニュータウン連絡会議による「ニュータウンの計画・建設・管理における課題に関する調査」に参加する機会を得て、我が国のニュータウンは立地条件や建設時期が異なるものの類似の課題を抱えていることや、一般市街地とは異なるマネジメントが必要であることに気づかされた。
 この頃、千里ニュータウンでは、分譲集合住宅の建替え計画が相次いだが、多くはバブル経済の崩壊とともに、住民間の対立という後遺症を残したまま挫折した。また、人口の減少と少子化・高齢化によって、都会の中の過疎地のような状況が生まれた。これらの問題を打開するために、ニュータウンの再生や活性化の名のもとに、数多くの調査・計画が実施されたが、私はこれらに参加し、千里ニュータウンのマネジメントを改めて自分に問うことになった。
 2000年には、新千里東町の方々とともに「歩いて暮らせる街づくり」構想を作成し、翌年にはこれを受けた「ひがしまち街角広場」の整備と運営に参加した。まちびらき40周年の2002年に市民の企画・運営によって開催された「千里ニュータウンまちづくり市民フォーラム」と、これを契機に結成された「千里市民フォーラム」にも参加し、千里で活動する人々との交流が広がった。また、「千里コミュニティ・ビジネス研究会」に参加したことを契機に、高齢者等の住まいやニュータウン再生の支援が必要と考えるようになり、仲間と「千里・住まいの学校」を設立した。
 このような流れの中で、これまで研究してきたことを深めて「ニュータウンのマネジメント論」にまとめられないかと考え、2002年に大阪大学大学院の博士後期課程に入学を許された。3年次の途中からは長年勤めた研究所を退職して研究に専念し、博士論文をまとめることができた。
 本書は、2006年3月に大阪大学に提出した学位論文「計画的新市街地の成熟過程における住環境マネジメントに関する研究」に加筆と修正を行ったものである。本書をとりまとめるにあたっては、数多くの方々にお世話になった。大阪大学の鳴海邦碩教授(現名誉教授)、同澤木昌典教授には、ニュータウンのマネジメントへの私の素朴な関心を研究課題へと高めていただき、人と環境との関わりの視点から多面的にご指導いただいた。財団法人大阪府千里センターや株式会社千里タイムズからは、数々の貴重な資料をご提供いただいた。
 本書は、大阪大学、京都大学をはじめとする諸先生方、大阪府、豊中市、吹田市、大阪府住宅供給公社、住宅・都市整備公団(現UR都市機構)など行政や公的団体の方々、千里・住まいの学校、ひがしまち街角広場、千里市民フォーラムなど、多くの方々の助言や指導の上に出来上がったものであり、心からお礼を申し上げたい。また、私が在籍した財団法人生活環境問題研究所や株式会社ジャスの皆さんにも心からお礼を申し上げたい。
 最後に、私を健康に産み育ててくれた両親、9年前に急逝した妻正子と義父母、娘の佳菜と真穂、研究や執筆を進める上で助言と励ましをくれた堀家靖弘氏に心から感謝したい。また、出版の助成をいただいた財団法人住宅総合研究財団、編集の労をとっていただいた学芸出版社の前田裕資氏、森國洋行氏に、心からお礼を申し上げます。

  2009年3月
  春浅い千里ニュータウンにて
山本 茂