バルセロナ旧市街の再生戦略

公共空間の創出による界隈の回復

はじめに
 バルセロナと聞くと、私たちはサグラダ・ファミリアやラ・ペドレラ(カサ・ミラ)といったアントニ・ガウディの建築群を思い浮かべるかもしれない。けれども、バルセロナが人々を惹きつけてやまないのは、何よりもまず、都市としての魅力に満ちあふれているからに他ならない。バルセロナの都市としての豊かさは、鮮やかで混じりけのない地中海の天候や、夕方になるとのんびりと散歩を楽しむ生活習慣にのみ帰されるのではない。活気あふれる都市へと変貌し、かつ現在もそうあり続けている背景には、1975年の民主化以降の精力的な都市再生の奮闘があった。
◆都市再生モデルとしてのバルセロナ
  都市再生へ向けたバルセロナの前衛的な試みが世界の建築家や都市計画家に広く知悉されるようになったのは、1992年に開催され成功裏に終わったバルセロナ・オリンピック以降だろう。もっとも、1987年には市の都市デザインの取り組みに対してハーバード大学からデザイン賞を授与されるなど、オリンピック以前から比較的注目度の高い都市ではあった。しかし国内外から多大な注目を集めるオリンピックの成功こそが、バルセロナの知名度を劇的に上げた。オリンピックを戦略的な都市政策として位置づけ、市ならびに大都市圏レベルのインフラを抜本的に再整備し、市内のいたるところに質の高い公共空間を産み落とし、またそこに様々なアーティストのパブリック・アートを配し、人々の生活の質を高め、都市全体の再編成を軌道に乗せることに成功したバルセロナの都市政策は、1999年に王立英国建築家協会(RIBA, Royal Institute of British Architects)のゴールド・メダル(*1)を獲得するに至った。RIBAの金賞が都市に対して送られたのは、後にも先にもこの年のみである(*2)。
  特にバルセロナの経験に地元イギリスの地域再生の活路を見出したのが、建築家リチャード・ロジャースであった。彼は自著“Cities for a small country”(2000年、邦訳『都市 この小さな国の』)をバルセロナの都市再生の成功譚から開始し、その成功の鍵を「高密で、コンパクトで、伝統があり、山と海が結びついた都市の特徴を生かすこと」「公共空間の開発を、あらゆる所得層の市民を巻き込む手段として活用すること」「大きな戦略のもとで、都市の各地域で局所的なプロジェクトを生じさせること」「参加の実感と、都市に対する誇りを人々に与えること」「責任者の任期と政党を超えて継続する、強力なコンセンサスを形成すること」「優れた才能を持つデザイナーを採用すること」の6点にまとめている(*3)。
  ロジャースが座長を務めたアーバン・タスク・フォースは1999年に『都市ルネッサンスに向かって』(“Towards an Urban Renaissance”)と題する研究報告書を出版しているが、その巻頭言のひとりに、バルセロナがフランコ独裁政権時代の長い低迷から抜け出し躍動しつつあった1980〜90年代に市長を務め、すでにカリスマ的な存在となっていたパスカル・マラガイが登場している。マラガイは言う:「公共空間の改善は、経済問題・社会問題の解決と不可分だ」。都市計画に対するこうした観点がよくも悪くも顕著に現出しているのが、本書が議論の中心に据える旧市街である。
◆「多孔質化」する旧市街
  バルセロナの旧市街を歩いてみるとよい。目抜き通りであるランブラス通りを冷やかしながら歩くだけでは、もったいない。ぜひとも近隣界隈も歩いてみたい。治安は確かに不安だが、思いきって薄暗い街路の続く市街地の中に迷い込んでみると、あたかもスポンジの空洞のように散りばめられたいくつもの魅力的な広場を発見することになるだろう。修復が進んですっかりきれいになった建造物に囲まれた広場には、一瞬そこが旧市街であることを忘れてしまうような鮮やかな光が差し込み、カフェのテラスでは老夫婦や学生たちが気ままに語らいながら、時の流れにのんびりと身を委ねている。薄暗い旧市街の街路も、ここに出るとすっかり地中海特有の青空と開放感に支配される。
  地元で著名なプランナーのひとりであるジョルディ・ボルジャは、「都市とは、道に集う人々そのものである」(*4)と看破している。こうした空間哲学に貫かれているバルセロナでは、何よりもまず、誰もが認識できるヒューマン・スケールの公共空間である街路や広場に、人がいかにして集い、活動するのかという視点が主眼に置かれている。事実、バルセロナの旧市街再生への取り組みは公共空間の回復への試みの歴史であった。1985年に策定された再生プラン(市街地改善特別プランと名付けられた)に沿って、翌年にはプランを実現する協議地区として「修復区域」が旧市街全域を対象に設定され、凝り固まり劣悪な環境の中にあった市街地が再生へと動き出した。事業の実現にあたっては、市が1988年に設立した旧市街開発公社(PROCIVESA)が大きな役割を果たした。旧市街の重要な広場のいくつかは、この文脈の中で新たに誕生している。その際、密集した古い市街地において、街区や建造物の選択的な取り壊しによって公共空間を新たに生み出す方法が採られた。これが本書における重要なテーマである「歴史的市街地の多孔質化」である。
  多孔質化による公共空間の再生は凝り固まった稠密市街地における「ツボ押し」として実施されてきたが、単に広場を創出し効果的に活用すれば、疲弊した市街地が再生するわけではない。旧市街では、1980年代中頃に策定されたプランを駆使しながら、広場の整備に代表される「部分」から整備を進め、スポット的に一定程度の成果を生み出してから続いて連鎖的に面的な整備を進めて地区「全体」を再構築するという戦略に基づいて、保全再生が進められてきた。本書が追求したいのは、この「部分から全体へ」構築する戦略的まちづくりの内実だ(*5)。
◆喧伝される「バルセロナ・モデル」
  バルセロナは、わが国の大都市と同様、都市再開発が極めて活発な都市である。近年でも、2004年開催の世界文化フォーラムの会場敷地(メインの会議場はヘルツォーク&ド・ムーロンの設計による)や旧工業地域であるポブレノウ地区を新たな情報産業エリアに転換しようとする22@プロジェクトなど、建築業界の耳目を集める事例は枚挙に暇がない。「バルセロナ・モデル」と呼ばれる都市戦略は批判されるべき側面も多く、バルセロナの都市再生の経験に対する評価は決して一面的ではない。しかし、原則的には、住民の生活の質の向上を念頭に置いた漸進的で小規模な修復型再開発が実施されてきた。成熟都市にあって、既成市街地の維持更新が最大の眼目となっている。都市再生が経済の論理にほぼ完全に従属しているわが国とはその点が対照的である。
  社会状況・経済状況が異なるにせよ、バルセロナの歴史的市街地も不動産所有者の権利関係の調整の難しさや居住者層の偏り、財政不足など、わが国の木造密集市街地や地方都市の中心市街地の整備と類似した問題を抱えていた。民間との恊働が事業の初動期には困難であることが多い歴史的な既成市街地において、再生事業は公共主導とならざるを得ない。そして期間と空間を限定した集中的な事業を可能にするために、まずは官々連携の仕組みをつくり、再開発資金をひとつの制度的枠組み内で管理運営していくことが重要である。そうした仕組みの効果と限界を検証することで何らかの一般性を有する知見を得ることができれば、それはわが国の都市計画にとって非常に示唆的なものとなるだろう。なぜならわが国においては、不確定要素に対する再開発運営上の硬直性こそが、多くの場合において障壁となっているからである。
◆本書の構成
  本書は以下の章で構成される。序章では、バルセロナがどのような都市なのか、そして旧市街がどのような界隈で成り立っているのかを簡潔に説明し、本書の理解の一助としたい。1章では、1980年代以降の実践的かつ戦略的な都市計画の理解を容易にするために、スペインにおける歴史的市街地の保全再生制度の展開を概説する。続いて2章では、バルセロナ旧市街に視点を移し、19世紀中葉以降、どのような都市問題が発生し、それに対して都市計画側からどのような対応が採られたのかを明らかにする。
  3章では、再生戦略が構想され実施に移されてゆく1980〜90年代に、旧市街が直面していた各種の都市社会問題を具体的なデータを示しながら明らかにする。4章では、旧市街の各界隈における保全再生プランの実際を考察し、空間整備上の特徴を明らかにするとともに、界隈レベルにおいていかなる空間整備が実施され、その結果どのような空間が生まれているのかを分析することにより、地区再構築の実態を明らかにする。5章では、整備手法の重層的な組み合わせや官民のパートナーシップといったプログラム面を考察することで、いかにして事業の持続的展開が可能となったのかを解明する。

  そもそも、都市にとって歴史的な市街地の存在価値とは何だろうか。そして歴史的な市街地の再生はどのような状態を指すのだろうか。その際、都市空間ならびに社会構造はどのように変容しうるのだろうか。そして高齢化社会の到来、人口減少時代への突入、社会階層の変容などが前提となる時代において、歴史的市街地への空間的介入にはどのような可能性・選択肢があり、それらはどういった都市計画的意味を持ちうるのだろうか。居住環境だけでなく、社会環境も衰退した既成市街地の再開発はどのようなプロセスで進めていけばよいのだろうか。これらの問いかけに、バルセロナ旧市街の30年近くにおよぶ軌跡を丹念にたどることで、何らかの応答を試みるのが本書である。

◇注◇
*1 これはRIBAの助言のもと毎年女王陛下から送られるもので、建築分野において際立った功績を残したものを表彰することを目的にしている。チャールズ皇太子がこのRIBAにおけるスピーチで現代建築批判をしたことはあまりにも有名である。なお、1965年に丹下健三、1986年に磯崎新、1997年に安藤忠雄の各氏がそれぞれ金賞を受賞している。
*2 El Pais, "Tony Blair adopta el 'modelo Barcelona'", July 4th, 1999, p.42。RIBAのコメントは以下であった:『都市バルセロナの再生は、そのプロセス、結果ともに模範的である。都市の目標を念頭におきつつも、初期の介入は局所的であり予算は低かったが、与えた影響は大きかった。バルセロナの洗練された都市デザインが国際的な評価を得たことが特筆すべき理由である。機会があればいつでも公園や広場を整備する、こうした戦略が熱狂と財源を巻き込みつつ雪だるま式に展開された。学校や保健所、文化施設が新設され、あらゆる形での公共・民間のパートナーシップを引き出した。そしてすべてが結集して大規模なインフラ整備プロジェクトへと展開していったのである。オリンピックの誘致は、都市全体を改善していくという長期的展望に立った、しかもいまだ続いている戦略のほんの一部分に過ぎなかったのである』。
*3 リチャード・ロジャース、アン・パワー(2004):『都市 この小さな国の』太田浩史・樫原徹・桑田仁・南泰裕訳、鹿島出版会、p.8。
*4 BORJA, Jordi; MUXI, Zaida. El espacio publico: ciudad y ciudadania. Barcelona: Electa, 2003, p.25
*5 本書は、歴史的市街地における保全再生政策の効果と限界を明らかにするためには、@プラン(物的環境整備)、Aプログラム(制度運用ならびに管理の仕組み)、B空間(実現された空間ならびに用いられ方)の三要素の関係性を解明することが不可欠であるとの仮説に立脚している。そして、それら三要素の効果的な連鎖のさせ方を「再生戦略」と定義する。